hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「芸術は政治だ!」--岡本太郎のこと(3)

 このブローグとしては、やや唐突に岡本太郎が出てきましたが、何故これを扱ったか?・・・シリーズもので、終わらせていないものがいくつもあるというのに--そのことも忘れているわけではありません。

 何故の答をいうと、このところ目に入ったものでうんざりするようなことが立て続けにあったからです。まとめていえば、「日本文化」の問題というようなことです。

 

[うんざりの1--「最強」の東電--権力、金力、浪花節

 東電は、とっくに破産しているはずなのに、権力に守られ、税金が投入され、これだけでもすごい話ですが、こんな人--東京電力福島復興本社の石崎芳行代表--のことが新聞に載っていました(東京2016/09/19)。

 

 石崎は今後も肩書に関係なく、ずっと福島に寄り添っていこうと決めている。背景には 、事故の前年まで福島第二原発の所長を務め「原発は安全」と言い続けていたことへの罪悪感がある。

 「福島の皆さんは組織としての東電というものを絶対に許さないと思うんです。でも、そこで働くわれわれが一生懸命にやっていくとで『組織は許さないけど、あんたは少し信じてやろうか』となればいいと思っています」

 そう言う石崎に「あれほどの事故を起こしてもなお原発は、必要と思うか」と尋ねてみた。「絶対必要です」即答だった。どんな場所でも、どんな相手からでも、尋ねられればそう答えるという。

 「ただし」と石崎は付け加えた。「単に技術的に詳しいとか、安全だからできますという感覚でいたら、原子力を扱う資格はありません。日本を思う気持ちとか、人の気持ちをおもんばかれないといけないと思うんです。それは事故前に足りなかったことでもあります」

  これは、「全電源喪失の記憶--証言--1F汚染」というシリーズの番外編⑤ですが、権力、金力に加え、こういう人がさらに東電にいるならば、東電は「最強」です。

 上記はインタビュー記事であり、石崎氏の考えのすべて、あるいは、いったことの論旨すべてを載せたものかどうかはわからないとはいえ、ここには原発被害の補償や原発の今後を決めるべき論理や倫理に代わるものとして、「浪花節」が流れていることは否めないと思います。

 ここには、本来並べられるべきでない2つの事柄--「原発の安全性」と「日本や人を思う気持ち」-が並べられています。

 事故前には、後者が足りなかったと「反省」して、これから、後者に気をつけるというのです。

 話が原発のことから、「情」の問題に移っています。

 そうではなく、足りなかったのは、もちろん「原発の安全性」です。それがあれば、原発事故は起きなかったのであり、「日本や人を思う気持ち」なんか、特に必要なかったのです。

 傲慢な人物に比べれば、石崎氏のやり方は、被害者にとってずっとましかもしれません。

 日本人はこういうのに、すごく「弱い」ですね(例えばメキシコだったら、こういうやり方はあまり有効だとは思えません)。

 でも、これでは原発をめぐる今後の判断、決定はこれまでと同様に全然安全なものになっていきません。

 それでも原発は絶対必要で、「情」に訴えて、人の気持ちを慮りながら、日本のために動かそう--というわけです。

 やっぱり、こういうのに「弱い」のは非常にまずいことです。次回以降に、他のうんざりの例を続けますが、そうしたものを日本文化の問題として捉えて、そうした日本文化の問題に対抗する要素として考えたのが、岡本太郎のことだったのです。

 



「芸術は政治だ!」--岡本太郎のこと(2)

 今日は、「芸術は政治だ!」の本論に入ります。

 

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 (川崎市岡本太郎美術館

 

 上記の作品の写真は、東京新聞の記事(2016/08/21、文・森本智之/紙面構成・小林麻那)からのものです。

 詳しいことは、この記事にあたるか、この美術館にいくかして尋ねてほしいのですが(ネタバレは、執筆記者に申し訳ないのでしません)、この絵の謎解きは、推理小説のように興味深いです。

 左側の作品が「血のメーデー事件」を扱っていることは、15年前に指摘があり、作品解釈が一変したと書かれています。

 その発表時期を見ると1954年ですから、メーデー事件の2年後です。岡本太郎が、このテーマを事件以来持続させてきたことがわかります。

 さらに、右側の絵は1950年発表で、

太郎は当時「いったんチャックが開かれるとバカみたいなものになってしまう。この間、経験したばかりじゃないか」と話した。怪物は権力の象徴で、レッドパージが吹き荒れた社会への警告、とみることができる

 (東京新聞2016/08/21、文・森本智之)

ということです。

 岡本太郎が「芸術は爆発だ!」といったのを知っている人は多いと思いますが、こんなことは知られていません。

 私も知らなかったので、あれっ、と感じると同時に、思い出したことがあります。

 岡本太郎は、「原爆の図」とも呼ぶべき巨大な壁画をメキシコで描いていたのです。

 私は1981年夏、家族とメキシコ旅行を楽しんでいました。

 メキシコシティの真ん中に、当時「メキシコ・ホテル」(現在は「世界貿易センター」となっている)と呼ばれた大きな建物がありました。そこは、実際には長年ホテル営業を開始する事はなく(経営者の不都合があったようです)、 コンクリートがむき出しになっていて未完成の印象を与えたまま放置されていましたが、私達はふらっと中に入ってみる事にしました。

 今は記憶が定かではありませんが、中に小さいお土産屋さんのようなものがあり、素焼きの鹿の背中に植物の種が仕込まれていて、水をかけると芽が出てくるようなものを買った覚えがあります。

 それはおそらく一階で、同じ辺りに巨大な放置されたロビーのような空間があり、その周囲の壁にその「原爆の図」があったのです。真っ赤な太陽のような、原爆の爆発のようなその巨大なデザインは、何の用意もしていなかった私の目と体にいきなり飛び込んできました--鑑賞のためのライトアップというような事はなく、むしろ、薄暗いくらいだったような気もしますが。

 胸がどきどきしながら、それでも少しずつ落ち着いて全体を見ていると、岡本太郎のサインがあり、何となく納得したような気持ちになりました。

 このことは当時何人かの人に「あの辺りに行ったら是非行くといい」と雑談で話しましたが、おそらく誰も行かなかったのではないでしょうか。

 「メキシコ・ホテル」は、東京タワーのような外観を持ち、地理的な目印としては、誰もが知っており、あるいは大きな中心道沿いにあるので、あの辺りを通る事は誰でもあることです。ただ、それは先にも書いたとおり開業しなかったままであり、特別な観光サイトでもなかったのです。

 私達も、この壁画の「発見」の意味を全く理解していませんでした。おそらく、ホテルの建物の所有者が岡本太郎に依頼し、しかし、ホテルが開業されなかったためにそのまま忘れ去られてしまったのではないでしょうか。

 ところが、その20年ぐらい後にこの壁画がいわば公式に「発見」され、日本に運ばれ岡本太郎の最大傑作(タイトルは「明日の神話」)として評価され、渋谷に展示されることになったのです。

 実を言うと、この公式発見については新聞報道で知っていましたが、あまり、追いかけていませんでした。そして、今ここでこの件についてネットを検索しました。そして出てきたもののが、これらのサイトです。

  https://www.1101.com/asunoshinwa/asunoshinwa.html

www.ebook5.net

 これらを見ると、私の記憶とこの壁画が一致するかといわれると、ずいぶん違う、というか、ほとんど絵、デザインそのものはほとんど覚えていなかった、と言うべきですね。いかに記憶というものがいい加減か、年齢による記憶力の減退を痛感します。

 それから、ネット検索でやはりヒットして思い出しましたが、Chim↑Pom というアーティスト・グループが、2011年の原発爆発の時に、渋谷のこの壁画に、パロディのような形で、彼らの作品を付加しました。

原子炉建屋から黒いドクロの煙が上がる様子を、壁画と同じタッチで紙に描き、それを塩ビ板に貼ったものを壁画の一部として自然に連続するように設置。

http://chim-pom.syncl.jp/?p=custom&id=13339952

 

 

 このことも、新聞で知っていましたが、あまり追いかけていませんでした。このサイトを見ると、当時、警察がこのことを知るや即時付加された彼らの作品を撤去し、罪状を「軽犯罪法と住居侵入」として、捜査を始めたと報道されていることがわかります。

 私は、2013年の秘密保護法成立を安倍ファシズム政権誕生の画期と考えますが、2011年の原発事故以来、戦前社会に近いおかしな雰囲気が漂い始めたと感じてきました。

 一番まずいと思うのは、新聞などがただ事実関係を報道するだけで--しかも、しばしば不正確に--批判すべきことを批判しないまま広めていくことの問題です。それでは、十分に考える余裕のない人々は、警察が言う軽犯罪法と住居侵入」が正しいと思うか、あるいは、正悪は別としてともかく警察沙汰にならないことをよし、とする態度を強化させがちでしょう。

 ところで、岡本太郎の壁画のタイトルは「明日の神話」でした。Chim↑Pom というアーティスト・グループが、それに「原発の神話」を加えようとしたことは、あまりに自然であるように思います。

 サイトでは、「明日の神話保全継承機構」は、Chim↑Pomの行為を糾弾したとありますが、それはおそらく、あまりにこの付加が自然すぎたからでしょう。岡本太郎の芸術的世界の広さ、深さ、そして「芸術としての」権威を擁護したい「機構」としては、あまりにわかりやすく、世俗的、そして「政治的」すぎたのでしょう。

 また確かに、「明日の神話」には原爆に抗う「明日」が描かれているのであって、そうした深遠なるものが込められた「神話」の意味を、汚されたくない、という感情もあるでしょう。

 しかし、どう考えても、岡本太郎が自分が描く絵画、壁画という技法を持って、社会への発言をなしていたこと--政治問題を直撃するような内容を持った発信であったこと--は明らかです。

 メキシコは、メキシコ革命運動に参加する芸術家達が、革命の大義を、壁画を通じて野外で直接に大衆に訴えようとしたことで有名な国です。そのことを岡本太郎が意識しなかったことはあり得ません。ちなみに、彼が壁画を描いた「メキシコ・ホテル」のすぐ隣に、シケイロス・ポリフォルムというやはり壁画家としても著名なシケイロスの美術館があります。

 メキシコの地において、日本のアーティストとして何を描くべきか、その渾身の答がこのテーマ、この作品だったのです。

 「芸術は爆発だ!」と岡本太郎が言う時、それは当然「芸術は政治だ!」でもあったと言わなければなりません。

 

 

 

「芸術は政治だ!」--岡本太郎のこと(1)

 何か、大上段にかぶった、上から目線の、かつ知った振りのタイトルになりました。

 東京新聞の美術館訪問という記事で、岡本太郎の「青空」という作品が取り上げられていて、これが「血のメーデー事件」をテーマにした作品だと書いてありました。

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  本当は、「芸術は政治だ!」の話をしたいのですが、少し横道に逸れて、「血のメーデー事件」に触れておきます。

 というのは、私は「血のメーデー事件」を含め、1949年、1950年代に起きた多くの様々な奇怪で血なまぐさい事件は、松本清張が『日本の黒い霧』で書いている様に、いずれも基本的に国家による犯罪(いわゆる権力犯罪)の可能性が濃厚だと考えています。

 実際、政府(警察)によって犯人とされた人々は裁判によって無罪とされ、検察側の証人や証拠が裁判官によっても批判されている場合が多いのです。

 この「血のメーデー事件」についても、一審で有罪とされた人々も、検察が主張した騒擾罪は、全員が高裁で無罪となりました。

 ところが、Wikipediaを見ますと、当時の政府の見解のみがそのまま事実のように書いてあります。

 Wikipediaの記述には、時々この種類のものがあるので注意が必要です。歴史修正主義が広がり、空気の様でかつ根強い反共主義が再生産されるわけですね。

 そこでちょっと探したのですが、本格的な研究を紹介しているサイトがありませんでした。上述のリンク先、あるいは以下のリンク先は、研究者ではないが、こうした事件に関心を持つ人が調べて書いたもののようです。私は、まずはこれが普通の事件の説明だといえると思います。

☆メーデー事件(血のメーデー)☆

 私は、今日、国会前集会等に参加して、おそらく当時のメーデー参加者の気持ちはこんなではなかったか、とわかるところがあります。少し歴史背景を並べます。

 

1950年

 5月、皇居前広場でのメーデー

 6月以降、レッドパージ

マッカーサーによる超法規的な共産党国会議員、中央委員の追放、共産党員その支持者の新聞社や公務員その他の職業からの追放、逮捕命令)

 都内でのデモ・集会の禁止

1951年  マッカーサーによる皇居前広場でのメーデー禁止命令

1952年 サンフランシスコ講和条約、安保条約発効

    軍国主義者達に対する公職追放の解除

    政府による皇居前広場メーデー使用禁止

    東京地方裁判所による「政府の皇居前広場使用禁止」の違憲判決

    政府、これを上訴(したがって、この時点では判決無効に)

    止むなく、メーデー明治神宮外苑広場で開かれる

    一部メーデー参加者が、皇居前広場へ集結、警官隊とぶつかる

 

  つまり、1952年のメーデーの時には、

 

サンフランシスコ講和条約や安保条約に反対する運動があり、にも関わらずそれが成立したが、これらの条約に対する反対や抗議の持続、

サンフランシスコ講和条約の発効によって、日本は(沖縄を除き)主権を回復したはずで、憲法の支配が始まったはずである。にもかかわらず、

 ②の1)  皇居前広場でのメーデーは、1946年より1950年まで続けられてきました。場所自体が、天皇主権から国民主権への変化を示す場所だったといえます。その上、裁判で使用禁止は違憲という判決まであったのに、そこが使えないという状態です。それに対する抗議の気持ち、

 ②の2)  サンフランシスコ講和条約の発効によって、軍国主義者達に対する公職追放は解除されるが、共産党に対する思想差別による弾圧、国会議員を含めた追放措置について、実質的な名誉回復は、損害回復は放置され、差別は維持されたままでした(これは現在も維持されています)。それにに対する抗議、

  こうした正当な感情が渦巻いていたのだろうと想像します。それが皇居前広場に向かう激しい抗議行動の背景にあったのでしょう。

 そしてそれは、政府が主張する計画的な共謀による騒擾というものとは異なるものであることが、裁判でも明らかになったわけです。

 ネットで、科学史を専門とされている黒岩俊郎名誉教授のメーデー事件被告としての体験記録を見つけました。

 米軍支配が終わり、まさに憲法が最高法規となった時、その時の集会の自由や権利を主張しようとした人達の気持ちはどんなだったでしょうか。 

私は、当日金属の顕微鏡写真をとろうと思い、借用願いを大学に出した。 然し何らかの都合でかりられず、東大構内を歩いていると、高橋昇氏(当時東大冶金科助手)が、赤旗をもって立っている。さそわれるがままに、私も東大助手らとメーデーに参加したのである。然し起訴状には「かねて皇居前を占拠しようとしていたデモ隊は……云々」とある。この事については、それ迄はメーデーの会場を皇居前の広場でもっていた。所が国が、その年から皇居前をつかわせないといい始めた。それについて裁判になり、「皇居前をメーデー会場に使わせないのは違憲である」と判決された。国側は、直ちに、この判決を不服とし上告していたようだが、一般の人達は、「国が違憲と判決した」事が、頭にあり、堂々と皇居前広場に入っていった。

(私と科学史技術史と専修大学など― 私と体験・戦後史 ―)p.3
 

 去年の戦争法反対闘争の時のピークの時に、私達は数回、国会前の道路に広がることができました。ところが10万人以上集まった写真が新聞の一面を飾って以来、警察は装甲車(正確な名称かは自信がありません)をすきまなく並べ、私達が道路に広がることを完全にできないようにしました。

 「国会前の空間は、私達のものだろう」「あそこにいることは私達の権利だろう」--私の気持ちは、64年前の黒岩名誉教授と同じです。

 また彼は、次の様に続けています。

17 年たって、 下った判決は被告の半分は無罪、 半分 (ある時間以降) は有罪、(然しこれも、第二審で無罪となる)、私の場合は、第一審で、無罪、判決文には、「人間は理由もなくなぐられると憤激の情をもよおすのは当然だ……」と記されていた。被告黒岩の立場にたてば、……あるものが数名の警官に袋だたきをされている。それを助けようとして、近くに落ちていた青竹(しばらく血だらけになったシャツとともに保存していたが……)をもって助けにいった。逆に私が、公務執行妨害罪及び騒擾助勢罪として逮捕投獄されたものである。要するに判決は両方(被告側と警察側)のメンツを、見事にたて、誤想防衛(正当防衛ではない)であったとしている。

 (私と科学史技術史と専修大学など― 私と体験・戦後史 ―)p.4

 幸にして、去年の運動は主催者達や私達の理性によって、暴力的な事態が展開することはありませんでした。 しかし、こんなことが目の前で起きた時どの程度理性的であることができるでしょうか。

(沖縄の高江における非暴力の抵抗闘争が、強い意思のもとになされていることに、心から敬服します)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南スーダンへの駆けつけ警護について--「国民への問いかけ」が何故必要か

 前のブローグで、南スーダンへの駆けつけ警護について「国民に問う」ということ、そうした視点から、ビラ配布活動などを中心にすることを提案しました。

 この提案理由について、2点、説明します。

 第1点は、この一年間に戦争法に関して意見が揺れ動いた人に対して、もう一度、この法律のリアルを見つめて欲しい、そしてスーダンへの駆けつけ警護に反対して欲しいということです。

 戦争法反対運動が展開された2015年夏の世論調査を思い出してみましょう。

 共同通信のそれによる戦争法反対者のパーセントを並べると次の通りです。

2015/5/20,21       47.6% 

2015/6/4    衆院憲法審査会、参考人長谷部恭男氏ら3人とも違憲を指摘 
2015/6/16 衆院強行採決

2015/6/17,18    58.7%
2015/7/17,18            61.5%
2015/8/14,15            58.2%

2015/9/19 参院強行採決     

2015/9/19,20            53%

 

  ピーク時には、6割の国民が反対していました。

 では、スーダンへの駆けつけ警護についてはどうでしょうか?私は、現時点ではこの問題自体を認識していない人が多数だと思います。

 しかし、私達のビラ配布の運動を通じて、戦争法の時のように、社会問題化されれば、つまりテレビや新聞の第1面が扱うようになれば、6割の国民が反対となると思います。

 そうなれば、政府が南スーダンへの駆けつけ警護の強行を実施するのは、かなり困難になると思います。自衛隊(員)の中から切実な反対意見が出るでしょう。

  第2点は、実施によって犠牲者が出た場合、「犠牲者が出た」という既成事実を利用して政府が「愛国主義」的な宣伝、施策を強力に進めようとするでしょう。それににずるずると引っ張られていく可能性を少しでも減らしたい、ということです。

 そのためには、人々の思考の出発点を犠牲者が出る以前に置くようにしておく、「国民に問う」という問題提起を行なっておいて、それを出発点として考えてもらうようにする、つまり、できる限り事前に「社会問題」として多くの人に認識しておいてもらう必要があります。

 この意味で、この件について世論調査が事前に行なわれるだけでも、私達の運動にとって好ましいことです。ただ逆に言えば、安倍ファシズム政権は、事前にこのような世論調査が行なわれたり、人々が意識するきっかけとなるような「社会問題」化されるのを極力抑えようとしていると思います。

国民に問う、「南スーダンへの駆けつけ警護の自衛隊派遣をどう思う?」

 先日(9月19日)総がかり実行委員会の戦争法採決強行一周年の国会前集会に参加してきました。

 前から思っていたことですが、その時の報告を聞いて改めて考えたことを、総がかり実行委員会へメールしました。

 それを以下に掲げます。

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拝啓 総がかり実行委員会様

 昨年の戦争法反対運動に続く活動に敬意を表します。

 9月19日(月)、戦争法採決強行一周年の国会前の集会にも参加させていただき、自衛隊南スーダンへの駆けつけ警護のもたらす隊員への深刻な危険について、報告者皆様のお話を伺い、改めて危機感を覚えています。

 新聞報道では、すでに自衛隊では、そのための訓練を始めているようです。

 このまま派遣が進み、その結果、死傷者が出てからメディアが大報道しても、多くの方が危惧されているように、それは、戦争法を廃止する方向ではなく、それを強化する方向へと利用される可能性が高いと思います。

 この自衛隊派遣を止めるにはどうしたらいいか、集会当日、総がかり実行委員会からも、いくつか行動提起がありました。

 私は、国会前の集会や青森県自衛隊部隊の派遣反対の現地闘争も重要だと思います。

 しかし同時に、ここまで事態が来ている以上、本当に派遣をストップするには、政府や国会や、あるいは自衛隊組織(幹部)に焦点を当てた闘争ではなく、文字通り、国民の意識、責任を問う運動をおこない、国民にはっきりと反対の意志を固めてもらい、それを「見える化」する他ないし、そうした運動のやり方が、有効だと考えます。

 「南スーダンへの駆けつけ警護の自衛隊派遣をどう思う?」--具体的には、国会前集会よりも、こういうビラの配布を多くの場所で、繰り返し行なうことに重点をおきます。発想として、今までは国会や政府の責任を問う活動でしたが、今回は国民の責任を明らかにしよう、という活動です。新聞でも広告を出したらいいと思いますが、それはいわゆる「意見」広告として私達の「意見」を言うという発想ではなく、「国民としての責任を問う」という発想に基づいて、文言をつくります。

 私は、実際に国民の責任は大きいと思います。戦争法は成立し、参議院選でも与党勢力が勝利した以上、国民が駆けつけ警護についても明確な反対を示さない限り、政府はそれを実行するでしょう。

 しかしもし、事前の世論調査で、6割、7割の国民が駆けつけ警護に反対であれば、政府が強行することは、去年の戦争法成立の強行よりも難しいのではないでしょうか。国民が反対の意思を示せば、止められるのです。

 私は、共同通信世論調査等で、自衛隊駆けつけ警護についての質問項目が今後上がってくるのか、疑問に思っています。すでに、そういう項目を入れないように、政府は手を打っているのではないでしょうか。そして、「最終判断は、政府の責任で」といって、政治問題化させないまま、実行しようと考えていると思います。

 そうした策謀に対しても、「国民の責任を問う」ビラ配布は考慮に値するのではないでしょうか。

 そうした一斉ビラ配布活動が実施されるとなれば、もちろん私もぜひ参加したいと思います。

 

              2016年9月24日

                     米村明夫

 

私立通信制高校--新自由主義と様々な日常

 学会発表の準備があって、少しブローグを休んでいました。

 学会で、知らなかった情報を得たので、関心を持つ人と共有するため、前回までのシリーズを今回は中断し、そのことを書きます。データは、酒井朗氏と内田康弘氏、それからWikiの「高等学校通信教育」の項目からです。このWikiの情報は、注もしっかりついていて、参考文献にアクセスしやすく、役立ちます。

 小泉政権の下で進められた新自由主義的政策は、教育の分野でも深刻な破壊をもたらしています。2003年に、構造改革特別区域法により、株式会社が学校を運営できるようにしました。その結果、2004年頃から通信制私立高校生の数が、急速に増大しました。

 その数は、2000年の7万4023人から2015年の11万3691人となっています。全高校生数の中での割合でいうと、2%から3%への増大です。人数でいうとかなりですが、割合にすると小さいので、この急速な増大があっても、話題になりにくく、その存在や傾向に気づきにくいでしょう。

 さらに、私立通信制高校は、サポート校と呼ばれる学校(これは法的には、学校教育法第1条に定められた学校とは別で、例えば、「先生」は教員免許を持ちません)と提携的な関係にあるがあることが多いようです。

 内田氏調査による48校のサポート校の年間授業料データによると、過半数が50万円から120万円の間にあります。このデータには、提携校(高校卒業資格を出す私立通信制高校)の授業料が含まれている場合と含まれていない場合があります。私立通信制高校の授業料とサポート校の授業料を合わせると、普通の私立高校よりも、20万円ほど高いそうです(私の聞き間違え、覚え違いがあるかもしれません。すべての数値の間違いは私の責任に帰します)。

 通信制の教育が主である学校の授業料としては、非常に高いと思います。

 他方、教育の中身はどうでしょうか。Wikiには、次のような記述があります。

 一部の広域通信制高校(学校所在以外の都道府県の生徒を受け入れる)において、サポート校に教育などのあらゆる業務を丸投げしているといった不適切な実態が指摘されている。
 構造改革特区法に基づく株式会社立の通信制高校の7割が、同法の禁ずる特区外での教育活動をしていた。文部科学省の担当者は、「脱法行為であるうえに教育の質も低く、高卒資格を売り物にしたビジネスになっている」と述べている(朝日新聞』 2012年8月19日付)。 

 現在の日本では、高校卒業資格は必須です。高校を途中退学してしまった生徒本人やその親は、必死になって、それを得る方法を求めます。そういう弱みにつけこむ商売--私は貧困ビジネスを連想しました--が「合法化」され、広がっている、というのが趨勢であると推定できます。 

 金儲けのチャンスを見いだした資本が、敏感に対応しているのでしょう。教育のために資本が用いられるのではなく、教育のための枠組みを破壊することによって、資本が「活き活き」とするのです。

 どのくらいの学校が、上記の引用で指摘されているような問題のある学校なのでしょうか?

 株式会社による運営は、2012年に20校でした(私の見ているデータでは、株式会社の下での生徒数はわかりません)。そうした組織が教育に参入した目的、動機が、利潤獲得にあることは当然ですから、上記のような問題と結びつきがちなことは容易に想像できます。

 学校数でいうと、株式会社と学校法人の全体を合わせた私立通信制高校全体の数は、2000年に44校であったものが、2012年には140校に増えています。普通の通信制でない学校ならば、学校施設や先生の雇用等、からいって、経営的に(公的な認可を得たり利潤を得るといったことから)大規模化しないやっていけませんから、そうすると、このような急速な増加はあり得ないでしょう。

 このことが示唆するのは、急増した学校法人の私立通信制学校においても、教育施設や擁する教員や職員の数や質が軽視されたまま設置されたことであり、そこでは利潤動機が優先的に働いている可能性が否定できないということだろうと思います。 

  もちろん、そこでもすばらしい教育を行なっている、あるいはそうした努力に努めている学校や先生もいるかもしれません。しかし、政策としてこうした方向を進めた来たことは、教育破壊として非難されるべきことと思います。

 私は、新自由主義(特区政策)によって株式会社が参入していることは何となく知ってはいたものの、こんな形で、とんでもないことを引き起こしているのだとわかってびっくりしました。

 この制度の下で勉強する生徒、勉強させる親、働く先生達、それに直接関わる多くの人々にとっては、これが普通の日常となっているわけです。

 改めて、政策、政治というものの重要さ、そして教育に関わる研究者の社会的責任というものを感じます。

人間的公務員「天皇」制のために(10)--「奴隷的天皇制」を主張する日本会議の人々

 今回は、前回の続きを論ずる前に、挿入的に言及しておいた方がいいと考える、日本会議の人々の最近の反応を扱います。

 私は、以前、「奴隷的天皇制」について議論しました。

 それは、本人の意思に反する形で天皇就任を迫る憲法解釈を呼びます。 

 天皇が死んだら、天皇の長男は、本人がいやといっても、必ず天皇をやらせる、というわけです。 

 こういう主張が「奴隷的」というのは、ただ本人の意思に反するからだけではなく、家族ではない他人の意思(主権者たる国民の総意)に従わなければならないからです。*1

 天皇就任後についても、本人の意思と関わりなく、死ぬまで働け、というのも、奴隷的天皇制のようなものです。

 摂政という制度がありますが、それを用いても、家族ではない他人の意思(主権者たる国民の総意)に従わなければならない、という点で、奴隷制が維持されているといってよいでしょう。

 私は、「奴隷的天皇制」の強要こそ憲法違反と考えます。

 ところが、日本会議の主要メンバーは、実質的にこの「奴隷的天皇制」の強要を唱えています。

 最近の朝日新聞の記事から引用します。

 まずは、摂政制度の採用を主張し、特別措置法に反対する論者達です。

日本会議と神政連の政策委員を務める大原康男国学院大名誉教授

「例外というのは、いったん認めれば、なし崩しになるものだ」

 

日本会議代表委員の一人で外交評論家の加瀬英明

「畏(おそ)れ多くも、陛下はご存在自体が尊いというお役目を理解されていないのではないか」「天皇が『個人』の思いを国民に直接呼びかけ、法律が変わることは、あってはならない」

 

安倍首相に近い八木秀次・麗沢大教授

天皇の自由意思による退位は、いずれ必ず即位を拒む権利につながる。男系男子の皇位継承者が次々と即位を辞退したら、男系による万世一系の天皇制度は崩壊する」「退位を認めれば『パンドラの箱』があく」

 

 これらには、私が主張してきた天皇側の就任拒否権に対する極度の警戒が見られます。

 逆に言えば、この問題は、憲法解釈上も実際的な運用上も、彼らのアキレス腱なのです。

 次に、上記の人々の立場から少し後退したように見える論者がいます。 

 

百地章・日大教授

「制度設計が可能なら」という留保つきだが、(1)まずは皇室典範に根拠規定を置いたうえで特措法で対応する(2)例外的な退位を定める典範改正は時間をかけて議論する――という2段階論が現実的ではないかとの立場だ。「超高齢化時代の天皇について、陛下の問題提起を重く受け止めるべきだ」

  

安倍首相のブレーンの一人とされる伊藤哲夫日本政策研究センター代表

「ここは当然ご譲位はあってしかるべし、というのがとるべき道なのか」(機関紙「明日への選択」9月号)

 

 以上の2人は、「お気持ち」表明前、退位に反対し摂政を主張していたが、表明後にこのように変わった、とされています。

 しかし、それは天皇と真っ向から対峙するのはまずいという政治的判断であって、「奴隷的天皇制」を「維持」しようという姿勢は変わっていないように見えます。

 この朝日新聞の記事は、発言者名を記していませんが、日本会議の人物のものと思われる次の発言で終わっています。

 

「首相を説得してでも特措法を封じたい。安倍さんも『天皇制度の終わりの始まりをつくった首相』の汚名は嫌でしょう」

 

 奴隷制の強要に通ずる、恥じずべき憲法解釈とその運用が、21世紀の世界において、「美しい日本」を語る人々によって執拗に述べられる異常を、糾弾したいと思います。

 

*1:善し悪しは別として、歌舞伎等の伝統芸能において、本人の意思以上に家族の意志が職業決定に影響を及ぼすという事例があるかもしれません。それを、奴隷制と呼ぶのは適当でないでしょう。