hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

人間的公務員「天皇」制のために(9)--横田耕一名誉教授の「実践的解答」

 今回は、また横道に逸れて、今日の憲法学者の「実践的な解答」について、批判を述べたいと思います。

 横田耕一(九州大学名誉教授)氏は、東京新聞(2016年08月18日)の「生前退位、こう考える」という欄で、天皇の今回の生前退位についての発言(「お言葉」)について、内容的に、①公的行為が歯止めなく広がる危険、②「象徴」が天皇の主体的な行為を意味しかねない危険、を指摘しています。

 そして、今回のテレビでの「お言葉」発表ということに至った経緯について、宮内庁と政府を批判しています。

 

引用(A)

 天皇陛下は生前退位という言葉を使わなかったものの、生前退位の希望を述べたことは自明です。憲法天皇が「国政に関する権能を有しない」と定めています。テレビで一斉に放映され、退位の制度化に向けて政治が動きだすのは憲法上、望ましくありません。こうした状況をつく
った宮内庁の責任は大きいと言えます。 

 本来は陛下の気持ちを付度して、宮内庁が内々で検討したり、内閣に伝えたりして話を進めるべきです。陛下は五年ほど前から、内部でお気持ちを漏らしていたと伝えられています。政府はもっと早い段階から、議論を始めるべきだったと結果的にも言えます。

 

 さらに、今回の天皇の「お言葉」から離れた「客観的な議論」を呼びかけています。

 

引用(B) 

 国民主権の原則から言えば 、「陛下がこう言ったから 」という理由で議論するのではなく、陛下の事情とは別に、天皇制のあり方を客観的に考え、その中で生前退位の是非を検討すればよいと思います。その場合、「天皇の公務とは何か」から考え直す必要があるのではないでしょうか。

  

 横田氏は、天皇制に関する憲法学の権威です。この記事はおそらくインタビュー的なものを基礎にした記事でしょうが、この問題についての、慎重によく練られた意見であると思います。

 それだけに、憲法学の象徴天皇制把握の実践的意義について、私は疑問を感じます。

 横田氏の主張は、第1に、天皇の主張内容が違憲的であること(上述の①②)、第2に、天皇の行動(テレビ発言)が違憲的であること(引用(A))、第3に、今後の議論は、天皇の公務についてを中心とし、その中に生前退位を位置づけるべきこと、とまとめることができます(引用(B))

 実践的課題という観点から、第2と第3の点を批判的に検討します。

 まず第2点ですが、横田氏は、天皇がテレビでの発言の一斉報道(「新たなる『玉音放送』」)という形について批判し、その第1の責任者として、宮内庁を批判しています。

 後では、宮内庁と政府を並べていますが、最初の批判対象は宮内庁です。そして、天皇自身は、批判の対象となっていません。

 どうしてでしょうか?

 それは、横田氏が、このテレビでの発言をセットした主体が、事実上宮内庁と推察しているからでしょう。

 通常の憲法解釈からは、政府の監督責任が問われる事柄であり、政府が批判されるべきです。確かにその意味で、横田氏は、後から政府についても言及しています。

 しかし、違憲的行動を支えている主体は、宮内庁であると捉えられているのです。

 さらに注意深く読むと、そのさらに先では、このような違憲的事態に至った原因という点では、(宮内庁というより)政府にあると主張している様です。

 天皇自身の責任については何故言及がないのでしょうか。

 それは、天皇が希望するのは勝手であるが、それを受け入れるかどうか、どのような形で受け入れるかは、宮内庁や政府の責任である、と横田氏が考えていることによるものでしょう。つまり「国政に関する限り」、天皇は何をいおうと無視されるべき、木石、ロボットのような存在として扱われているのです。

 横田氏の議論は、どうしてこのような違憲的事態が生じたのか、どうすべきであったのかについて、当然のことながら、自らの憲法論の観点に沿って論じたものとなっています。

 しかしそれは、彼の見る違憲的事態が生じた現実をリアルに把握しようとしたものとはいえないと思います。 

 私(達)は、まだ証拠がないので推察しかできませんが、事実の大筋は次のようなものであったでしょう。

 天皇が生前退位を望んだが、政府はそれを拒んできた。それ故、天皇が自分の意向実現のため、その意向のリークを許した。さらに、天皇自身が、意向実現のために国民に対するテレビ放送を希望した。

 政府は、天皇の意向を封殺したいと思っていたし、それが可能であると思っていた。しかし、一度意向がリークされるや、政治的に、天皇の意向表明を阻むことは不可能となった。

 宮内庁は、天皇の意向を「静かに」実現したかった。しかし、現在のような形で問題化される前に、天皇の意向を実現する対政府力はなかった。

 私が氏の論建てと現実の乖離を指摘しているのは、次の理由によります。

 つまり、彼の論建てからくる問題解決に対する実践的解答は、現実を憲法規範に近づけようとするというよりも、現実の経緯について、表層的な手続きを整えることによって、彼の憲法解釈規範を満たそうとするものになっているのではないか、ということです。

 意地悪な言い方をすると、しばしば官僚や政治家が悪用する形式的な手続きのみを重視する手法、それと同じにものになっていないでしょうか。

 何故なら、私から見ると横田氏は、こうした違憲的事態が生じないようにするためには、要するに、「宮内庁や政府がある段階までは『内々に』ことを進めろ」、あるいは、「現実はさておき、形としては、そういう形をとることが必要だ」と主張しているのですから。

 次回、第3点(引用(B))について議論します

人間的公務員「天皇」制のために(8)--「共和制派」におけるリアルな歴史の不在

 私は前回、「いくら厳格運用しても、象徴天皇制があり、天皇が生きた存在であり、従って政治的思想を持つ者として存在する以上、その行動や発言が、政治的な意味を持って現れること、現れようとすることは、抑えきれない」と述べました。

 この論点は、共和派の議論ではあまり出てこないことのように思います。私は、この問題を、うまくこなれた表現ではないのですが、「天皇の歴史的当事者性」の問題、というように捉えられると思います。

 そして、この「天皇の歴史的当事者性」の問題は、さらにより広い、「国際公約としての憲法」という視点から理解できるようになると考えます。

 通常の共和派的な憲法理解は、戦前の歴史的反省を踏まえて、「天皇の国政に関する権能をなくす規定を明記した」というもので、そこから、象徴天皇のシンボルマーク論が出てきます。

 しかし、考えてみると、誰がどのような「歴史的反省」を行なったのでしょうか?

 おそらく、敗戦当時の多くの国民がそうした気持ちを持ったということは、事実と言っていいでしょう。しかし、共和派的な理解が正しいのであれば、何故、天皇制の廃止(=共和制の実現)に至らず、象徴天皇制が採用されたのでしょうか。

 本来、憲法やフランス人権宣言のような歴史を画する文書は、歴史的・政治的運動の高揚の到着点としての記録です。

 そして、それは、実際の政治勢力の勝利によって支えられた社会的・政治的価値の制度的表現として、圧倒的な(社会的な広さと歴史時間的な持続性を持った)規範力を持つものです。

 当時、新しく生まれようとしていた日本国憲法についても、このような観点(当時の歴史的現実という観点)から理解するのが、自然であり、当然であると思います。私は、以前、宮沢俊義教授の「八月革命」論を、革命的言辞を弄しながら、実は革命主体を喪失させるものとして、批判を行ないました。

 私は、象徴天皇制に関する「絶対的天皇制への歴史的反省」論は、宮澤理論と同様の歴史的主体を喪失させる議論だと考えます。

 私自身の結論を先に言えば、新憲法全体とその中の象徴天皇制の条項は、次の3つの勢力の力学の結果を表現するものと考えます。

 ①ポツダム宣言に体現された国際的な民主主義勢力  

 ②天皇を頂点とする政府

 ③民主主義的な変化を歓迎した日本の人々

 つまり、新しい日本国憲法(の骨格)は、①の国際的な民主主義勢力の勝利を、日本の政治のあり方(憲法)のレベルでも、②の日本政府に改めて認めさせたものです。

 この意味で、日本国憲法(の骨格)は、ポツダム宣言受諾に続く、国際公約(日本政府による国際社会に対する国際公約)と呼ぶべき性質を持ちます。

 では、日本国憲法は通常の憲法、あるいはフランス人権宣言のような、国内的に強力な、民主主義的な支えを持っていないものと考えるべきなのでしょうか?

 私は、それに対する答は、Yesであり、またNoでもある、と考えています。

 まず、国内的な支えがあったという肯定的な側面を述べましょう。

 先に挙げた③の民主主義的な変革を歓迎した国民は、過半数にのぼると考えられます。 

 また、ポツダム宣言は、たんに日本政府に命令するのではなく、日本政府が「日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化すること」や「日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立」の実現を前提としていていました。

 従って、先に述べた③の民主主義的な変革を歓迎した過半数の国民は、新しい憲法の国内的な支えであり、さらに言えば、潜在的な意味においてではあるが、①の国際的な民主主義勢力の一部を構成していた、といってもいいものであると思います。

 以上のような私の議論は、従来の憲法解釈をより歴史的現実に立脚させることによって、わかりやすく実践的な新しい憲法解釈を得ようとする動機、現在の私達の政治的な課題がどのような歴史的な過程からどのようなものとして現れているかを明らかにしたいという動機、に基づくものです。

 次回以降に続けます。

 

人間的公務員「天皇」制のために(7)--難しい政治的位置にある「共和制派」

 共和制を理想とする「共和制派」勢力・支持者は、現在、最近の天皇の「お言葉」をめぐって、政治的に非常に難しい判断を求められていると思います。

 この共和制派は、「現時点での積極的共和主義派」と「現時点では象徴天皇制を容認する消極的共和主義派」、に分類できます。

 「現時点での積極的共和主義派」を積極派と呼ぶことにします。

 積極派は、現時点での象徴天皇制の廃止を主張します。現在の憲法解釈も極めて厳格に行ない、天皇の公的行為は、憲法に示された10の国事行為のみが許される、とします。

 これに対し、「現時点では象徴天皇制を容認する消極的共和主義派」を消極派と呼びましょう。

 消極派は、基本思想として、共和制を支持しますが、象徴天皇制の廃止が現在的な政治課題と上がっているとは考えません。

 憲法解釈については、天皇の公的行為の範囲は、憲法において列挙された10の国事行為以外についても認めるものとし、それが憲法の基本精神(国民主権、平和主義、基本的人権)に沿ったものであれば、違憲であるとは考えません。

 私自身は、消極派です。

 積極派は、私が以前、シンボルマーク論と呼んだ考え方といえます。

 ここでは、積極派の議論から始めて、その議論が論理的一貫性を持っているのに、今日の処方箋として実践性が欠けるものとなっていることを、歴史的な過程を含めて、少し詳しく見ていきたいと思います。

 澤藤統一氏のブローグ国民が「天皇を思いやる」という滑稽(2016.08.21)が、この積極派の現時点での問題把握を分かりやすく示してくれます。

 まず、澤藤氏は、毎日新聞の次の投書を引いています。

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天皇陛下のお気持ちを聞いて」

    (無職男性70歳 千葉県市原市

 天皇陛下が、現在のお気持ちを述べられました。
 「全身全霊」をもって象徴としての天皇の務めを果たしてきた、というお言葉に、頭が下がる思いがしました。私たち国民は、象徴としての天皇陛下がおられることが、当たり前で、何も疑問を感じないで今日まで来たように思います。
 国民は天皇、皇后両陛下に励まされ、生きる希望や喜びを感じてきました。これも「全身全霊」、陛下の無私のお心によってなされた行いであり、感謝しております。
 国民は、今まで、国民の象徴である陛下のことを、どれほど、思いやることができたのでありましょうか。陛下のお気持ちをお伺いするまでは全く無関心であったように思います。
 「人間天皇」として老病死は避けられない現実であります。陛下のお気持ちは、よく理解できました。このお気持ちに応え、政府は、早く対応を検討し、元気なうちに皇位を、継承できるようにしていただきたいと思います。 

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 その上で、氏は自らの主張を次のように対置します(議論のために、若干の省略を行ない、また、段落区切りを増やし、論点ごとに、番号を振りました)。

 

 ①・・・投書の文中に、「国民は天皇、皇后両陛下に励まされ、生きる希望や喜びを感じてきました。」とあります。天皇や皇后の励ましが生きる希望や喜びとおっしゃるあなたの言葉は私には到底信じがたいものです。もし、これがあなたの本心から出たものだとすれば、それはまさしく信仰の世界の言葉です。天皇・皇后は、いくつかの「神」や「教祖」に置き換えて読むことができます。・・・

 ②「全身全霊」をもって自分の努めを果たし、そのことで社会に寄与してきた人は天皇に限らず無数にいます。障がいを持ち、貧苦の中で、あるいは逆境に耐えてきた方に対してではなく、衣食住に苦労せず、国民の税金で生計を立ててきた天皇に、特に頭が下がる思いというのは、どうしても私には解せないことです。

 ③天皇家の私的な家計収入に当たる内廷費は今年度3億2,400万円です。天皇天皇としての勤めを果たすための宮廷費は、55億4,558万円。宮内庁の運営のために必要な費用は、まったく別で109億3,979万円。そのほかに、皇族(4宮家)の生計維持のための皇族費が、2億2,997万円となっています。

 内廷費や皇族費は、一切税金がかからない純粋な「手取り」です。もちろん住居も保障されていますから、天皇家も皇族も結構なご身分なのです。

 ②こんなに恵まれた天皇が、税金を負担している側の国民から、「どれほど思いやることができたのでありましょうか」と思いやりの声をかけられることは、滑稽ではありませんか。

 ②人間はみな平等。これは文明社会の公理です。誰の命も平等に大切。誰の人生も平等に価値あるものです。生まれながらの貴賤はありません。貴を認めるから賎なる観念も生じます。価値のない人生はない。まったくおなじように、家柄だの血筋だのの尊さもありえません。

 ④「象徴としての天皇陛下がおられることが、当たり前で、何も疑問を感じないで今日まで来たように思います。」
 それでよろしいのではありませんか。

 ⑤敗戦によっても天皇制が断絶せずに永らえたのは、日本を共産主義勢力からの防波堤とするためのGHQの思惑でした。「GHQに押しつけられた象徴天皇制」といってよいと思います。

 ④押しつけられたものにせよ、現行憲法にその存在の規定がある以上、存在自体は「当たり前」で、しかも普段は「その存在や天皇の言動に特に関心も疑問を感じない」というありかたこそが、憲法の想定するところだと思います。

 ⑥最後に申し上げますが、天皇制とは、取り扱いに注意を要する危険なものです。その危険のみなもとは、天皇が政治的に使える道具であることにあります。国民が、天皇に肯定的な関心をもち、天皇を敬愛するなどの感情移入がされればされるほど、天皇はマインドコントロールの道具としての危険を増すことになります。あなたにとっては不本意でしょうが、あなたの投書も、そのような象徴天皇の危険性を増大することに寄与しているのだと、私は思います。
(2016年8月21日)

 

 氏の主張は、

①投書者による天皇崇拝は宗教的信仰と変わらないものであること、

②投書者による天皇に対する評価の仕方は、人間平等の価値に反していること、

天皇制の維持に税金が大きく用いられていること、

④象徴天皇は、憲法の規定によって、シンボルマークのようなもの(木石、もしくは人形やロボットのようなもの)でなければならないこと、

象徴天皇制は、GHQが、反共産主義の砦として設定したこと、

天皇制は、政治的な道具とされる危険な要素を持つこと、

と、まとめられます。

 これらは、理路整然としていて、ほとんど反論の余地がありません。

 ④を除く、①②③⑤⑥の論点については、私(消極派)も賛成します。

 しかし、この立場に立った時、しかし、天皇の提起(「お言葉」)に対する実践的な回答は、何なのでしょうか。

 ④という回答も、一つの回答です。しかし、それは、無回答(つまり、「黙っていなさい」という回答)と同じことです。

 あるいは、共和制への移行を提起するということも、この立場の一つの論理的帰結ともいえます。

 しかし、一方で澤藤氏のようにこの立場を堅持する人もいるでしょうが、おそらく共和制に共感する人々の中でも、多くの人が、そうした回答は、ことさら一般の人々(自覚的共和派以外の人々)の反感をあおるようなものであり、現在、政治的に不可能だということも認めるのではないでしょうか。

 私は今の時点から見ると、共和制積極派の持つ困難は、歴史の出発点に埋め込まれており、時間の経過とともに、ますます、その立場をそのままで実現することは、難しくなってきていると思います。

 もともと憲法の基本原理は、共和制的なものでできており、象徴天皇制は、GHQの占領支配の都合から、下からの革命的な変化を防ぎ、既存の政府・統治機構を利用するという意味で採用されているものと理解できます。

 つまり、GHQとしては、憲法象徴天皇制条項の厳格運用がなされたとしても、それが、共産主義勢力が多数になって共和派を占めるというようなことと関係なければ、全く問題がなかったでしょう。

 GHQにとっては、GHQの統治に都合がいいかどうか、ポツダム宣言の「民主的傾向の復活と平和的な政府」という国際公約の建前に沿った外観を持っているかどうか、が問題で、政府が共和派かどうかということは、ある意味ではどうでもいいことだったといえます。

 またGHQは、ある程度時間が経って後(憲法ができたり、独立したりした後の過程)の憲法運用や長期的見通しについては、詳しくは考えていなかったでしょう。

 しかし、日本人自身の共和派にとっては、このGHQ象徴天皇制案を提示し、それに基づいて、現憲法が制定された時点が、象徴天皇制を厳格に運用する最大の可能性が存在した時点であったと思います。

 つまり、天皇の公的な行為として、憲法に規定された10の国事行為のみとし、他は一切認めない、とするためのチャンスは、新憲法が実施される、その瞬間こそにありました。

 その最初の国会開会式では、天皇の「お言葉」が述べられる等という憲法に規定されていないことはやるべきではなかったのです。

 しかし、実際には、憲法が施行されてからも、昭和天皇、政府、国会の3者が、憲法規定を守らず、あるいはそれに沿った厳格な運用を行なわないままでした。

 そして、共産党だけが、国会開会式における天皇の「お言葉」に対して欠席してきたものの*1、何十年もの間、天皇の「公務」は、政府と天皇自身の希望によって拡大してきました。

 ただ私は、この経験を経て、共和派の主張が実現しなかったことが、現在の問題を引き起こしている、というようには考えません。逆の言い方をすると、共和派の主張どおりに、憲法規定の厳格運用(シンボル・マーク理論に沿った運用)がなされていたとしても、長期的に見ると、現行憲法自体に解決が難しい矛盾が内在していたと考えます。

 仮に、現行憲法の下で、共和派にとって理想的な統治が進められ、憲法規定の厳格運用がなされたとします。

 その場合でも、政府の側からイニシアチブを持って(つまり国民主権を明確にして)、天皇の生前退位や女性による世襲も含めて規定した法律を作ることが必要となったし、象徴天皇としての役割に関して、シンボルマーク論では対応しきれない場面が出てきて、天皇憲法に沿ってどのように行動すべきかについて、議論が必要となっただろう、というのが私の考えです。

 何故そうなるかというと、3つの理由があります。

 第1は、澤藤氏が指摘した①のような「天皇教」崇拝の人々(投書者)が、現在もかなり存在することです。これらの人々を「理論的に」説得することは、不可能でしょう。

 第2には、新憲法の出発点では、可能と見えたシンボルマーク論は、生きた人間に対しては、憲法の精神と反するものとなってしまうことです。

 法律論を超えて、「これは無理」、「おかしい」と感ずる人が多くなってしまうことは押さえられないと思います。

 第3に、いくら厳格運用しても、象徴天皇制があり、天皇が生きた存在であり、従って政治的思想を持つ者として存在する以上、その行動や発言が、政治的な意味を持って現れること、現れようとすることは、抑えきれないからです。

 私の提案は、こうした状況に対処しようとする一案です。

 また長くなりました。次回以降に続けます。

 

 

*1:共産党は、戦争法廃止のための野党共闘を方針とするようになって、上記の国会開会式の欠席方針を改めました。理由は、共産党が現行の象徴天皇制に反対しているように誤解されるから、というものです。

 確かに、欠席理由がむしろ、象徴天皇制に忠実であろうとした結果であるということは、ある程度勉強していないとわからないでしょう。メディアは、政治観測的な記事を書くよりも、そういうことをきちんと伝えてほしいものです。

人間的公務員「天皇」制のために(6)--「天皇制派」の現在

 今回は、「象徴」について議論する前に、天皇の世代交代やその後の時間の経過、政治状況の変化によって新しい状況・構図が出現しているということについて議論しておきます。

 このことは、さらに未来のことを考えるとはっきりします。

 例えば、イヤな仮定ですが、自民党憲法案が国民投票で成立したとすると、「自動的」に、天皇は元首になるのでしょうか?

 私の考え(憲法解釈)では、普通の人間に戻る権利、すなわち天皇就任に関する拒否権を持ちます。実際に、彼にとって拒否権を行使することは、非常に難しい判断でしょうが。

 私は、現天皇が現憲法の価値を積極的に受け入れ、促進する立場に立ったことによって、象徴天皇制に関する新しい状況・構図が生じていると言いましたが、このことをもう少し詳しく述べます。

 まず、旧来の天皇制支持勢力について見ましょう。

 旧来の天皇制支持勢力は、2つに分かれてきていると理解すべきと思います。第1は、この現天皇を中心とする現平和憲法積極支持派です。第2は、「日本会議」のように戦前の天皇制のイメージや権威をできる限り復活、利用しようとする戦前天皇制復活派です。

 この戦前天皇制復活派は、もちろん、戦前と同じ絶対的天皇制を復活できるとは思っていませんし、口先では、民主主義を唱えます。対内的にも、対外的にも、それが必要な時代であることはよく分かっています。しかし、天皇制のイメージや権威をうまく使って、自分達に都合の良い国民支配を進めようとしているのです。

 旧来の天皇制支持勢力が、この2つに分かれてきているのは客観的根拠があると思います。

 第1に、後者の戦前天皇制復活派は、今世界中で極右が復活、成長している現象と同じで、日本ではそれが國体イデオロギー歴史修正主義を掲げている勢力であり、安倍ファシズム政権を支えています。

 第2に、前者の平和憲法積極支持派は、自らの存続には、象徴天皇制という形での現憲法が最良であると判断している勢力です。現天皇や皇后だけではなく、おそらく天皇ファミリーのメンバーや関係責任者の多くが含まれるのではないでしょうか。

 戦前の絶対主義的天皇制が、國体イデオロギーによって「完成」し、「破滅」へ至ったのは、ほんの10年程度の間のことです。

 冷静に考えれば、同じく、安倍ファシズム政権に未来はなく、その路線が戦前天皇制復活派の方向で、強硬化すればするほど、日本全体を、したがって天皇ファミリーをも破滅に導くものであることは明らかです。

 従って、自分達も疎開、敗戦という経験を持ち、また、極東裁判によるA級戦争犯罪人の処刑を身近に知っている天皇や皇后が、戦前天皇制復活派に同調しないのは、全く自然なことです。

 そして天皇ファミリーの永い存続を、現在の象徴天皇制こそが保証している、ということを、理性的にも感性的にも受け入れているのではないでしょうか。

 仮に私が、天皇もしくは天皇ファミリーの責任あるメンバーであったとしても、それ(現憲法積極的支持)以外の判断はあり得ませんね。

 

人間的公務員「天皇」制のために(5)--キモとしての「世襲」と「象徴」

 今日は、本論に入ります。

 私は、昭和天皇から平成天皇への代替わりによって、憲法象徴天皇制の性格の変更(解釈変更)の可能性が開かれたと考えます。

 この新しい解釈が、私が「人間的公務員『天皇』制」と呼ぶものです。*1

 この解釈変更は、共和制支持者の側から見て、「共和制」性の前進と捉えてよいものだと思います。

 また同時に、こうした解釈変更を明確化することは、現在の安倍ファシズム政権に対抗する幅広い人々との共同を形成、明確化するためにも、必要なことと考えます。

 また、長くなりそうで恐縮ですが、天皇の代替わりの意味から議論します。

 そして、まず、象徴天皇制をめぐる憲法論のキモ(重要な論争点)は、「世襲」と「象徴」にあることを述べたいと思います。

 私は、憲法天皇主権から国民主権への革命的な転換を、「一方的に宣言」しているものだ、と言いました。

 しかしそれは、憲法の一方的宣言の中で、憲法が、天皇主権を少しでも維持したいと考える勢力のことを、全く考えていないということではありません。

 もし、そうした勢力の存在や主張を全く無視していたのならば、共和制が採用されていたでしょう。

 つまり、憲法における象徴天皇制は、共和制支持勢力と天皇主権を少しでも維持しようとする勢力の妥協を反映したものでもあります。

 妥協といっても、憲法は明確に国民主権を謳っているのですから、基本的には、共和制勢力の革命的勝利であることは間違いありません。

 ただ、この妥協は、憲法成立の当時という時点でいえば、共和制支持勢力と、当時の天皇昭和天皇)を始めとする天皇制勢力との「約束」という意味を持つことにも留意する必要があります。

 ここで「天皇制勢力」と呼ぶものは、すでに主権は失ったが、何らかの利権を少しでも多く維持し、あるいは新たに獲得しようとする勢力や、将来的にまた戦前の天皇制的なものの復活を目指す勢力を指します。

 つまり、憲法が成立した時の基本的な構図は、一方に、完全な共和制を理想とする共和制支持勢力があり、他方に上記で述べたような天皇制勢力があり、両者が敵対的な関係として存在し、その妥協(約束)として、象徴天皇制ができた、というものです。

 憲法学者や私達一般国民が、このような構図の下で、憲法を理解(解釈)することは、ある意味では当然です。

 憲法解釈というものは、歴史的文脈を抜きにしてできるものではないからです。

 従来の憲法解釈は、基本的にこの構図に従うものといえるでしょう。

 確かにこのように考えれば、共和制を基本としながら、象徴天皇制があるために生じている、現憲法の中にある矛盾(万人が平等でなく、生まれによる差別があり、天皇基本的人権を十全に享受できない)を、「理解」「受け入れて」「どうにか運用」することが可能となります。

 私は、 前々回に、天皇世襲制は、自動的に天皇になることを意味するのではなく、天皇になる必要条件の一つである、ということを論証してきました。

 しかし、実はこれは、平成天皇への代替わりによって可能となった新しい解釈です。

 そこで、私は、天皇有資格者が、「いやだ、天皇になりたくない」と言い出したらどうする?という問題を出しましたが、ここで述べたような歴史的な図式(戦後直後の2つの勢力の対立関係の構図)では、そういうことは起き得ないことなのです。

 憲法成立時を考えてみれば、昭和天皇側はできるかぎり従来の特権、利権を維持(國体護持)しようとしていたのであって、憲法天皇に関する条項は、昭和天皇側との妥協(約束)という意味を持っていました。

 従って、憲法作成や憲法解釈において、昭和天皇が「天皇になりたくない」といいだすことを、想定する必要は全くなかったわけです。

 また、共和制支持勢力と天皇制勢力の対抗と前者の基本的勝利とする妥協、という結果として、後者に対し、何らかの特権、利権の維持を認める替わりに、基本的に勝利者の側である共和勢力側が、天皇の政治的なパワーを剥奪する(天皇の選挙権の否認を始めとする、政治的行為の禁止)こと、それによって、天皇(制)が戦前に果たした歴史的誤りを再び繰り返さないようにすることとしたことは、非常に「自然」なものであったといえます。

 このような妥協を前提とした状態の中では、共和制支持勢力と天皇制勢力の対立という構図は、生き続けたものとなります。 

 とはいえ、憲法が妥協(約束)を反映しているという意味は、対立的な関係が持続しているとしても、その時点では、どうあるべきか、どう行動すべきかについて、双方の一致を見たということです。 

 この対立構図の中での象徴天皇制は、互いに、一致点を無下に引っくり返すようなこと(約束破り)を避けながらも、共和勢力側からはただシンボルマークのようなもの、ほとんど不必要なものとなることが追求され、他方、天皇制勢力側からは、できる限り、戦前の天皇制をモデルにした外観や権威を持ち続けることが目指されます。

 では、どのような一致があったのでしょうか。憲法の第1章の全体(第1条から8条まで)がその一致を表しているわけですが、ここでの論点において、重要なキモは、憲法第2条の「世襲」と第1条の「象徴」です。

 今回は、特に世襲について議論します。

 「世襲」は、血筋が特別な意味を持つことを示すものです。これは、平等主義の共和主義に反するものであり、共和主義側の譲歩であることは明らかです。とはいえ、これは一致点なので、憲法を変えない限り、動かすことはできません。

 天皇制勢力(國体護持勢力)にとっては、これは極めて重要な条項でした。

 まずこれは、昭和天皇天皇としての存在そのものを正当化するものです。

 一見するとそれは、次世代のことを規定しているように見えます。しかし、旧来の解釈(特に天皇制支持派の解釈)では、そうではありません。

 それは、過去、現在、未来のシステムを、そしてそれを統べる天皇を正当化するものです。

 しかしそれはなによりもまず、新憲法が成立しようとする時点において、昭和天皇天皇としての存在の継続に対して意味が与えられている規定です。

 すなわち、昭和天皇は、第2次世界大戦の敗北における責任者であり、さらにまたそのような位置にあったものとして当然戦争犯罪者として追及されてしかるべき位置にありました。

 この世襲規定の旧来の解釈によれば、事実としてそのような位置にあることと関わりなく、どのような事実をも超え、この血統位置にある者は、天皇という特別な地位にあることを意味しているのです。

 昭和天皇が、新憲法では象徴天皇としてですが、天皇としての地位にあり続けることは、この世襲規定によって完全に擁護されることになります。

 また両勢力の妥協であるということは、昭和天皇が、天皇になるのはいやだ」と言い出す可能性がないばかりでなく、「天皇の役割を果たす能力に欠ける」という可能性、さらに天皇憲法擁護義務を拒否する可能性も、最初から排除されていることを意味します。

 つまり、血筋によって「自動的に」天皇になる、それは私が前回に「血統万能天皇制」と呼んだものです。それは、旧来の勢力構図を前提とした旧来の憲法解釈では、「自然」なものです。

 天皇になるための必要条件として、血統条件以外に、意志と能力、憲法擁護義務への忠誠を考える必要がなかったわけです。

 そして、一度この「血統万能天皇制」が採用されれば、この「世襲条項」が、未来へもそのまま同じように「血統万能天皇制」として適用されるものと観念されたのも「自然」なことといえましょう。 

 しかし、平成天皇への代替わり、平成天皇の実践は、「血統万能天皇制」を変える可能性、必要性を明らかにするものとなりました。

 第一に、平成天皇は、就任時に、憲法擁護の宣誓を行ないました。

 私は、本来昭和天皇も、新憲法の成立時に、それを行なうべきだったと考えますが、ありませんでした。

 ともかく、この平成天皇の行為は、多くの人々に、新しい天皇の姿勢・あり方を印象づけるものとなりましたし、憲法の下での公務員と並ぶ天皇憲法擁護義務の存在を目に見えるものとして、改めて意識させるものとなりました。

 「万能」なのは、天皇ではなくて、憲法そのもの(=主権を持つ国民)なのだ、という単純な「真理」を目に見せてくれたのです。

 憲法学では、このことを、「(象徴)天皇制の廃止は、憲法改正の限界には入らない」という難しい言い方をするようです。

 私は、「天皇がいなくなっても、不都合なく、実質的に今の憲法のままで(形式的にいえば、天皇に関する条項を削除するだけで)、ただちに共和制に移行できる」ということを書きましたが、同じことですね。

 さらに第二に、今回の天皇の生前退位をめぐる「お言葉」は、天皇の地位(役割)にあるための「能力」さらに「意志」の問題も、非常にはっきりと提起するものとなっています。

 高齢などの理由によって、体力的にも無理が出てきても、そして本人の意思に反して働けというのは、私が「奴隷的天皇制」と呼んだものです。

 このことも、従来の憲法解釈が含んでいる問題であることが、「お言葉」によって、明らかになったのです。

 世の中のこと、社会、政治といったものは、理屈より実践が先立つものであり、実践によって、旧来の理論が挑戦を受け、新しい理論ができてくるものです。

 とはいえ、むしろ私のような素人に言わせてもらえば、天皇が「お言葉」のような形で提起している問題に対し、憲法学がほとんど準備をしていないように見えることは、あまりに既存の理論体系に縛られすぎている結果ではないか、と憂えざるを得ません。

 もし、共和制対天皇制の2つの勢力の対抗という基本構図が大きく変化したとすれば、旧来の解釈は変わる可能性、変わらなければならない必然を持つでしょう。

 私は、現天皇の就任時の憲法擁護の宣誓に始まる今日までの実践は、旧来の構図における天皇制支持勢力のリーダーとしてのものとは異なると考えます。

 それは、妥協はあるが対立が維持されたままという旧来の2つの勢力という構図自体を変えようとするものです。

 つまり現天皇による実践は、天皇自身が、憲法の基本原理・価値(それは明らかに共和主義的なものです)や象徴天皇制という新しい制度そのものを、積極的に新しい価値として受け入れようとしたものであるといえます。

 私の新しい解釈(世襲=必要条件論)は、こうした新しい事態、天皇の新しい実践(憲法の基本原理の擁護、支持)に対応して、「世襲」の条項を、できる限り、共和主義的な発想や人権尊重の規定に則して、解釈し直したものです。

 次回には、同じく、世代交代によって生じてきた、「象徴」条項に関わる憲法解釈の重要な変更の可能性と必要性について議論したいと思います。

 もっと議論が難しく、複雑になります。しかしやはり非常に重要な問題です。

*1:もしかしたら、すでに誰かが唱えていて、新しくないかもしれません。また、おそらく、「人間的公務員『天皇』制」論は、戦前の「天皇機関」説に似た骨格を持っているだろうと思います。いずれの点についても、私は専門家でなく、私の議論の目的は、そういう方向での厳格さを求めることにはなく、現在の政治的課題を明確化する方向で議論を活発にすることにあります。

人間的公務員「天皇」制のために(4)--ザ・ピープル、しっかりせよ!

 今日も少し、本論から脱線します。

 天皇の「お言葉」に関して、法律家でない人達の論評の中に、「重い問題提起だ」という意見と「これは、第2の天皇人間宣言だ」という意見があります。

 

 私は、これらの論評に共感するものです。

 そして、世論調査を見ますと、

問い)現行制度では、天皇は生前に退位し、皇位を譲ることはできません。 あなたは、天皇が生前に退位できるようにすることをどう思いますか。

 

答え)できるようにした方がよい --86.6%

 

共同通信による8月8、9日調査)

 

とのことです。

 一見すると、基本的にまともな方向へ話が進んでいきそうです。

 しかし、私はかなり不安を持っています。

 今日のサブタイトルを、「ザ・ピープル、しっかりせよ!」としました。

 ザ・ピープルというのは主権者たる国民のことです。

 ですから、本来、「しっかりせよ!」等といわれる存在ではなく、最高の存在です。

 しかし、あえて自らと仲間を叱咤激励し、この不安を払拭しようと思います。

 

 「ザ・ピープル、しっかりせよ!」

 

 原発も、秘密保護法も、戦争法も、反対がかなりの多数を占めていました。

 ところが、何故か、少し時間が経つとずいぶん様相が変わってしまいました。

 確かに、安倍ファシズム政権は、嘘や騙し、アメとムチ、論点ずらし、権力濫用、色々やりましたが、私から見るとそれほど、巧妙でも精緻でもないやり方でした。

 自分が、主権者としての国民=ザ・ピープルだ、という自覚があると、そう簡単に変われるものではないと思います。

 ザ・ピープルとしての自覚があると、すぐにインチキが直感できます。だまされないはずです。

 生前退位の問題で、天皇のメッセージが、憲法違反だというもっともらしい意見があります。

 これについて、主権者としての意識を明確にして考えてみましょう。

 例えば、この共同通信のアンケートの中に、次の結果があります。

 

問い) 今回のビデオメッセージをきっかけに生前退位を可能にする法整備が進む可能性があります。 あなたは、このことが、天皇が国政に関与できないとする憲法の規定上、問題があると思いますか。

 

答え)問題がある-----16.2%
      問題はない-----72.6%
   分からない・無回答-11. 2 %

 

共同通信による8月8、9日調査) 

  

 何か、うさんくさい質問ですね。

 この質問の中の「このこと」とは、「法整備が進む」ことです。

 これは、実は、次の2つの全く別のことを、わざとごちゃ混ぜにして、「問題がある」という答えを誘導しようとするものです。

 

 (1)「ビデオ・メッセージ」

    (2)「生前退位を可能にする法整備が進むこと」

 

 (1)「ビデオ・メッセージ」が、「天皇が国政に関与できないとする憲法の規定上、問題がある」という論理は、それなりに、憲法論として成立するでしょう。

 ビデオ・メッセージを発する、という行為が、憲法規定に反する疑いがある、という論建てです。

 

 他方、

 (2)「生前退位を可能にする法整備が進むこと」が、「天皇が国政に関与できないとする憲法の規定上、問題がある」ということはあり得ません。

 この2つは、明確に区別しなければなりません。それぞれについて、別々に議論すべきことです。

 そして、重要なことは、この2ついずれについても、主権者たる国民として考え、決定するということです。

 まず(2)について見ましょう。

 (2)では、国民が必要、妥当と思うことを決めれば良いのです。

 つまり、憲法に書かれた通り、国民主権でやればいいだけのことです。

 法整備を進めるかどうか、法整備の中身をどうするか、国民、議会が議論します。

 その始めや、途中に、天皇天皇の家族の意見を聞くことは「必要」あるいは「義務」ではありません。

 しかし、国民、議会が、そうした意見を何らかの意味で参考にしたいと思い、そのほうが適切な決定ができると考えて、天皇側に質問を行なうことはあり得るでしょう。

 基本的に、「天皇は国政に関する権能を有しない」という憲法の規定は、天皇の権能・行動や政府の行動に縛りをかけるものであって、国民の主権者としての行動に制限をもたらすものではありません。

 天皇の意見を聴取するかどうかを考えて、するとすれば、それは主権者たる国民が、(主権者として一方的に)正しい、妥当な決定を行なうためのものです。

 (前回まで示してきた私の憲法解釈では、天皇候補者は「交渉」はできませんが、「実質的な拒否権=天皇に就任しないこと」は可能です。)

 もちろん、共和制になることを国民が決定する場合は、天皇側の意見を聞く「必要」は全くありません。

 国民あるいは議会の多数が主権者として決定の結果、天皇の希望が100%、あるいは150%、200%実現することもあるかもしれません。逆に、全く何も認められないこともあるでしょう。

 いずれの場合も、それは天皇による国政への関与でも何でもなく、ただ、主権者たる国民による決定です。

 次に、(1)について見ましょう。 

 中には、天皇のメッセージの内容は、「賛成、あるいは必ずしも反対ではない、だが、(1)メッセージを発したこと自体が、憲法違反だ」という人もいるでしょう。

 そうした立論は、憲法論としては可能だと思います。(前回、私は、そうした立場に立たないということを書きましたが。)

 そうした立場の人は、メッセージを発したこと自体を批判すれば良いでしょう。

 主権者として当然です。

 当然どころか、憲法違反に対し戦う(批判する)のは、主権者としての責務ですらあるのです。

 ところが、共同通信アンケートは、「ビデオ・メッセージ」を問題にしているように見せながら、問題の焦点を生前退位を可能にする法整備が進むこと」にしてしまい、「法整備が進めば、憲法上問題があり」、「法整備が進まなければ、問題がない」という構図に、回答者の意識を引き込んでいます。

 先に述べたように、主権者としての自覚があれば、こういうインチキに振り回されないでしょう。法整備を進めるか進めないかは、100%国民が決めることです。

 それが天皇の希望に沿ったものとなるか、ならないかということと、すでになされた天皇発言の違憲性の有無とは何の関係もありません。

 アンケートがなすべきであった妥当な質問としては、例えば、

 

 「天皇は国政に関する権能を持たない、とする憲法の規定があります。今回のビデオメッセージについて、この規定に反すると考えますか?」

 

というものでしょう。

 

 もしかしたら、ビデオ・メッセージの違憲性の問題と法整備を進める・進めないの問題を絡めようとする人の中には、違反に対し、「何らかの罰が必要だ」という意識があるのかもしれません。

 メッセージは違反であり、違反者に対する「最強」の罰は、違反者の希望を(たとえ内容的・人道的にそれが正当・妥当であったとしても)認めないことだ、というのです。

 これも、強いて言えば、主権者意識といえばいえるかもしれません。しかし、主権者意識というよりは、何かサディスティックで、権威主義的な匂いがしますね。

 実際のところ、「違反者の希望を認めない」という罰を必至とすることは、論理的に破綻していて、その「論理」の適用は、権威主義者の都合や利害による恣意とならざるを得ないのです。

 このことは、次の例を考えれば、すぐわかるでしょう。

 天皇自民党憲法案の支持者になって、ビデオ・メッセージ第2弾でその旨を披露したとしましょう。

 そうすると、この「論理」に従うと、自民党憲法案は、実現が許されないことになります。

 めでたいことですが、実際にはこうはならず、権威主義者達は、必ず、「あれは天皇の本心ではない。自民党案を阻止するために、言い出したのだ」と言い出すでしょう。

 この種の(1)と(2)を絡めようとする「論理」の枠組み(違反に対する罰という枠組みや、あるいは、天皇の意見を認めるとそれは憲法違反を認めることになるからダメという枠組み)は、単なる口実であり、それはただ「自分にとって不都合な法の整備を進めたくない」人々の政治的な利害を隠すためのものであることを見抜く必要があります。

 今日は(も?)、少し脱線しましたが、私はつくづく、細かい議論以前に、しっかりした主権者意識を持つこと、育てていくことの重要性を感じます。

(新版)人間的公務員「天皇」制のために(3)--象徴天皇制は、「血統万能天皇制」でもなく、「奴隷的天皇制」でもない

(これは、9日にアップしたものを、論理的に整理し直し、10日の午前にアップした、新しいバージョンです。)

 

 「お言葉」を文章で読みました。

 いつも思うことですが、天皇と皇后の文章の日本語はとても美しいですね。

 教育、教養、人格が出てくるのでしょう。

 さて、今日は昨日の続きというよりは、特にある程度法律や憲法を知っている人、あるいは法律、憲法のプロの人達の反応を見て、私の驚いていることを書きます。

 

 1.必要条件としての「世襲」--皇位有資格候補者の決定

 

(第2条)
皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

 

 私の理解では、この条項の「世襲」は、血統が必要条件であることを示しています。 

 つまり、この血統条件を満たす者は、皇位資格を有する候補者となります。

 「世襲」ということの意味については、後で議論します。

 今日ここで議論したいのは、従って、世襲による皇位の継承は、「自動的」に行なわれるのではない--世襲のための血統条件を満たしても、それは天皇になる十分条件ではない--ということです。

 こうした主張の根拠、そこから導かれる重要な結果を以下で示します。

 

2.憲法に反する「血統万能天皇制」

 

 仮に、世襲による皇位の継承が、「自動的」に行なわれる--世襲のための血統条件を満たせば、それは天皇になる十分条件である--としましょう。

 私は、これを「血統万能天皇制」と呼びます。極端な例を挙げましょう。

「形だけ天皇にさせられても仕事なんかしない」という有資格者(天皇の長男)が現れたら、どうでしょうか?

 あるいは、「僕は絶対天皇になる。なったら、憲法を足蹴にしてやる。この憲法は大嫌いだ。憲法尊重の誓いなんて真平で最初からする気はないよ」と公言している場合はどうでしょうか。

 「天皇の地位は欲しいんだ。どうしてもしなきゃならないなら、最初だけは憲法尊重の誓いは嘘でやるかな。なっちゃえばこっちのもんだからな」という有資格者が天皇に就任して、憲法無視の行動を始めた場合はどうでしょうか。

 それでも「天皇の長男は天皇だ」「死ぬまで、天皇天皇だ」というやり方--これが「血統万能天皇制」です。

 明らかにおかしいですね。

 しかし、私が、「第2条のいう『世襲』は、血統が必要条件であることを示している」「血統条件を満たしても、それは有資格者候補となったに過ぎない」、と主張する憲法上の根拠は何でしょうか?

 それは、憲法の中に、天皇であるための(従って、「天皇になるため」でもある)必要条件を規定した条項が、他に3つあるからです。

 その第1は、すでに前回見た、第4条と第7条の天皇の国事行為を規定した条項です。これは、これら2つの条項を合わせて一つのセットと見た方がいいでしょう。

 このセットは、天皇の地位にある者の任務を規定したものですから、その任を果たす意思及び能力があることが、当然の条件(必要条件)となります。

 意思と能力とのいずれかでも欠けている者は、就任することができず、あるいは就任後にそのような状態になれば、休職、もしくは退職(罷免)ということになります。

 第2の必要条件は、憲法第99条による「天皇や公務員の憲法尊重擁護義務」です。この条件を満たさない者、あるいは満たさなくなった者も、就任不可であり、あるいは退任を求められます。憲法尊重擁護の誓いをしない者は、有資格者候補で、就任意志と能力があっても、就任することはできません。

 要するに、「血統万能天皇制」は、憲法自体が明白に否定しているのです。 

 

3.憲法に反する「奴隷的天皇制」 

 

 「血統万能天皇制」の問題は、仕事をしない天皇憲法を守らない天皇が地位にあることの問題ですが、「奴隷的天皇制」の問題は、本人の意思に反する形で就任を迫る場合です。 

 例えば、天皇の長男は、天皇が死んだら、いやでも必ず天皇を継承しなければならないのでしょうか。

 あるいは、私達は無理やりでも、長男を天皇の地位につけるのでしょうか。

 無理にやらせるのが、国民の総意、国会の多数であれば、合憲で、皇位継承有資格者による天皇就任拒否は違憲ですか? 

 そういう主張を、私は、「奴隷的天皇制」と呼びます。

 「奴隷的」というのは、ただ本人の意思に反するからだけではなく、家族ではない他人の意思(主権者たる国民の総意)に従わなければならないからです。

 憲法の定める象徴天皇制が、このような奴隷的天皇制であるということは、私にはとても理解できません。

 逆に、私の理解では、「奴隷的天皇制」は、憲法違反です。

 憲法に従えば、仮に、世襲のための血統条件を満たし、職務遂行能力を満たし、仮に就任した場合に憲法尊重擁護義務を果たす気持ちがあるとしても、そもそも、就任の意思がなければ、皇位を現実に継ぐ義務はありません。

 仮に、理由を言っても言わなくてもいいのですが、「絶対いやだ。死んでもいやだ。僕は天皇になりたくない」と言う者が現れたら、天皇にならなくてもいいのです。

 私は、前回も書いたように、皇位有資格者でも本人に就任の意志がなければ、就任拒否できると考えます。

 このように主張する憲法上の根拠は、憲法22条1項が、「何人」にも職業選択の自由を保障しているからです。

 通常の憲法解釈では、天皇の場合は、先の第2条の「世襲」規定によって、「自動的に」天皇となるので、天皇基本的人権からは、職業選択の自由が消失するとされています。

 これは、前回見た「国政に関する権能を有しない」という規定によって、選挙権などが奪われたケースに似ていますね。

 しかし、この解釈は、私の意見では、まさに皇位有資格者候補の人権を侵す違憲の解釈です。

 先に論証してきたように、第2条は、天皇資格の必要条件を述べたものに過ぎないのですから、それを理由に、有資格者の職業選択の自由という権利を奪うことは許されないのです。

 当然、皇位有資格候補者も、天皇になる前であれば、この自由を保証されています。

 ですから、憲法は明白に、「奴隷的天皇制」も拒否している(それが発生しないように設計してある)というべきです。

 ただし、一度天皇に就任した場合は、退任についてその時期や理由など、何らかの制限を受けるのは、どのような雇用でも、それぞれの契約関係による制約を受けるのと基本的には同じです。

 とはいえ、一度就任したら、本人の意思と関わりなく、死ぬまで働け、というのは、またそれも奴隷的天皇制のようなものです。

 先に書いたように、憲法は奴隷的制度が発生しないような設計になっているのですから、一度天皇に就任すると、その後は、奴隷的になってしまう、ということが生じてしまうのは、下位の法律(皇室典範)の制度設計がだめ、ということです。 

 私に言わせると、今日議論したことは、ごく当たり前なのですが、ほとんどの論者が違う認識を持っているようです。

 特に、リベラルな人が、「奴隷的天皇制」を主張するのは、天皇制憎しから来るのか、少しびっくりしました。