永続市民革命(2)--寅さんは、それを見つめない
私は以前のブローグで、「男はつらいよ」が嫌いだと書きました。嫌いなので、よく見ていないので、間違っていたら教えてください。
寅さんは、「よっ、日本の労働者階級諸君っ」というよなセリフを時々いいます--片手を挙げながら。
このシリーズの第1作は、1969年です。前年は、学園紛争が始まった年、1968年です。私は、1971年に大学に入学しましたが、その前後、1970年の安保条約改定、1972年の沖縄返還をめぐって、それなりに運動がありました。私は、寅さんシリーズのような作品に、こうした社会状況を反映させるべきだ、とか反映させてほしいとかいうことは考えていません。
でも彼は、斜めからでもいいですから、こうした運動、あるいは少し遡って1960年の安保闘争を、一度でも「見つめた」ことがあるのでしょうか。
非常に広く、長く愛されてきた娯楽作品だからこそ、そこに私達に刻み込まれた感性、ものの見方が自然と表れているものだと思います。
小津安二郎の作品はずいぶん違いますね。内田樹氏がブローグで、『秋刀魚の味』の1シーンに言及しています。
(戦争をめぐって元水兵とバーで飲みながら)
駆逐艦元艦長は「いやあ、あれは負けてよかったよ」とつぶやく。それを聞いてきょとんとした元水兵はこう言う。「そうですかね。そういやそうですね。くだらない奴がえばらなくなっただけでも負けてよかったか。」
小津作品は、会話を含めて、基本的にモノローグで構成されていて、そのモノローグへの純度の高い共感を呼ぶことがねらいとされている、といえましょう。
登場人物は、モノローグ性の表れ方の程度の差はあれ、相互にモノローグ性を担う主体として表れます。外部の視聴者も、これに共感するには、モノローグ性を持った主体たらざるを得ません。どうしても「オタク」っぽくなりますね。
でも、私はここに「市民」あるいは「個人」を見出します。
ヨーロッパ的イメージの「市民」や「個人」、あるいは闘う「市民」や強い「個人」という前の原型ですね。一人一人が感性を持ち、考え、反省する、そういう個人です。
そういう個人は、日本にいっぱいいるのではないですか。小津は、そうした日本を切り取ったわけです。
これに対し、片手を上げて「労働者諸君っ」という寅さんは、どうでしょうか。
このセリフは、労働運動、学生運動に対する敵意ではなく、からかいの感情に近いでしょう。
ただ、寅さんは遊び人ですから、からかいといっても上から視線ではなく、遊び人という自由な立場だからこそ率直に言える、いわゆる「庶民」の視線を代弁している、という感じです。
私達視聴者は、そのセリフを笑って迎えた瞬間、寅さんと寅さんを取り巻く「庶民」の世界に同一化していきます。
もちろん寅さん自身も、その瞬間、自分一人で思考する、反省することから離れた存在、「あの寅さん」となることを宣言しているのです。
唯一例外があるとしたら、それは彼が真剣にマドンナに思いを寄せる場面です。そこでは、初めて彼が一人の自分として何かを見つめるのです。
マドンナは、一作毎に新味を与えるという意味でも、寅さんによって表現される遊び人的世界、「庶民」の世界において、例外的に真剣な要素をもたらして作品にアクセントを加えるという意味でも、このシリーズにおいて重要な役割を果たしています。
しかし、実際に庶民の世界では、恋愛だけが真剣に思考する対象になるのでしょうか?
山田洋次監督の庶民像は、おそらく多くの人の視線を代弁するものでしょう。
私達は、60年安保闘争をすぐに忘れてしまったのです。
1960年の安保闘争は、労働組合等の組織が中心でした。それなくしてはあり得ませんでした。
そしてまたそれは、ひょっとしたら、「庶民」が一時的な熱に浮かされただけだったのかもしれません。
しかし、国会周辺に突如何十万と集まった人々のことが、何故、「忘れられ」てしまったのでしょうか。
また彼らは、市民ではなかったのでしょうか?
この日本において、この忘却が何故にかくも「自然」と生じたのかという問題を解明すること、あの闘争を市民革命という角度から捉え直そうとすることも、永続市民革命の重要な課題であると思います。
今日のブローグは、わずかながらですが、この課題への私なりの接近を試みたものです。