hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

人間的公務員「天皇」制のために(5)--キモとしての「世襲」と「象徴」

 今日は、本論に入ります。

 私は、昭和天皇から平成天皇への代替わりによって、憲法象徴天皇制の性格の変更(解釈変更)の可能性が開かれたと考えます。

 この新しい解釈が、私が「人間的公務員『天皇』制」と呼ぶものです。*1

 この解釈変更は、共和制支持者の側から見て、「共和制」性の前進と捉えてよいものだと思います。

 また同時に、こうした解釈変更を明確化することは、現在の安倍ファシズム政権に対抗する幅広い人々との共同を形成、明確化するためにも、必要なことと考えます。

 また、長くなりそうで恐縮ですが、天皇の代替わりの意味から議論します。

 そして、まず、象徴天皇制をめぐる憲法論のキモ(重要な論争点)は、「世襲」と「象徴」にあることを述べたいと思います。

 私は、憲法天皇主権から国民主権への革命的な転換を、「一方的に宣言」しているものだ、と言いました。

 しかしそれは、憲法の一方的宣言の中で、憲法が、天皇主権を少しでも維持したいと考える勢力のことを、全く考えていないということではありません。

 もし、そうした勢力の存在や主張を全く無視していたのならば、共和制が採用されていたでしょう。

 つまり、憲法における象徴天皇制は、共和制支持勢力と天皇主権を少しでも維持しようとする勢力の妥協を反映したものでもあります。

 妥協といっても、憲法は明確に国民主権を謳っているのですから、基本的には、共和制勢力の革命的勝利であることは間違いありません。

 ただ、この妥協は、憲法成立の当時という時点でいえば、共和制支持勢力と、当時の天皇昭和天皇)を始めとする天皇制勢力との「約束」という意味を持つことにも留意する必要があります。

 ここで「天皇制勢力」と呼ぶものは、すでに主権は失ったが、何らかの利権を少しでも多く維持し、あるいは新たに獲得しようとする勢力や、将来的にまた戦前の天皇制的なものの復活を目指す勢力を指します。

 つまり、憲法が成立した時の基本的な構図は、一方に、完全な共和制を理想とする共和制支持勢力があり、他方に上記で述べたような天皇制勢力があり、両者が敵対的な関係として存在し、その妥協(約束)として、象徴天皇制ができた、というものです。

 憲法学者や私達一般国民が、このような構図の下で、憲法を理解(解釈)することは、ある意味では当然です。

 憲法解釈というものは、歴史的文脈を抜きにしてできるものではないからです。

 従来の憲法解釈は、基本的にこの構図に従うものといえるでしょう。

 確かにこのように考えれば、共和制を基本としながら、象徴天皇制があるために生じている、現憲法の中にある矛盾(万人が平等でなく、生まれによる差別があり、天皇基本的人権を十全に享受できない)を、「理解」「受け入れて」「どうにか運用」することが可能となります。

 私は、 前々回に、天皇世襲制は、自動的に天皇になることを意味するのではなく、天皇になる必要条件の一つである、ということを論証してきました。

 しかし、実はこれは、平成天皇への代替わりによって可能となった新しい解釈です。

 そこで、私は、天皇有資格者が、「いやだ、天皇になりたくない」と言い出したらどうする?という問題を出しましたが、ここで述べたような歴史的な図式(戦後直後の2つの勢力の対立関係の構図)では、そういうことは起き得ないことなのです。

 憲法成立時を考えてみれば、昭和天皇側はできるかぎり従来の特権、利権を維持(國体護持)しようとしていたのであって、憲法天皇に関する条項は、昭和天皇側との妥協(約束)という意味を持っていました。

 従って、憲法作成や憲法解釈において、昭和天皇が「天皇になりたくない」といいだすことを、想定する必要は全くなかったわけです。

 また、共和制支持勢力と天皇制勢力の対抗と前者の基本的勝利とする妥協、という結果として、後者に対し、何らかの特権、利権の維持を認める替わりに、基本的に勝利者の側である共和勢力側が、天皇の政治的なパワーを剥奪する(天皇の選挙権の否認を始めとする、政治的行為の禁止)こと、それによって、天皇(制)が戦前に果たした歴史的誤りを再び繰り返さないようにすることとしたことは、非常に「自然」なものであったといえます。

 このような妥協を前提とした状態の中では、共和制支持勢力と天皇制勢力の対立という構図は、生き続けたものとなります。 

 とはいえ、憲法が妥協(約束)を反映しているという意味は、対立的な関係が持続しているとしても、その時点では、どうあるべきか、どう行動すべきかについて、双方の一致を見たということです。 

 この対立構図の中での象徴天皇制は、互いに、一致点を無下に引っくり返すようなこと(約束破り)を避けながらも、共和勢力側からはただシンボルマークのようなもの、ほとんど不必要なものとなることが追求され、他方、天皇制勢力側からは、できる限り、戦前の天皇制をモデルにした外観や権威を持ち続けることが目指されます。

 では、どのような一致があったのでしょうか。憲法の第1章の全体(第1条から8条まで)がその一致を表しているわけですが、ここでの論点において、重要なキモは、憲法第2条の「世襲」と第1条の「象徴」です。

 今回は、特に世襲について議論します。

 「世襲」は、血筋が特別な意味を持つことを示すものです。これは、平等主義の共和主義に反するものであり、共和主義側の譲歩であることは明らかです。とはいえ、これは一致点なので、憲法を変えない限り、動かすことはできません。

 天皇制勢力(國体護持勢力)にとっては、これは極めて重要な条項でした。

 まずこれは、昭和天皇天皇としての存在そのものを正当化するものです。

 一見するとそれは、次世代のことを規定しているように見えます。しかし、旧来の解釈(特に天皇制支持派の解釈)では、そうではありません。

 それは、過去、現在、未来のシステムを、そしてそれを統べる天皇を正当化するものです。

 しかしそれはなによりもまず、新憲法が成立しようとする時点において、昭和天皇天皇としての存在の継続に対して意味が与えられている規定です。

 すなわち、昭和天皇は、第2次世界大戦の敗北における責任者であり、さらにまたそのような位置にあったものとして当然戦争犯罪者として追及されてしかるべき位置にありました。

 この世襲規定の旧来の解釈によれば、事実としてそのような位置にあることと関わりなく、どのような事実をも超え、この血統位置にある者は、天皇という特別な地位にあることを意味しているのです。

 昭和天皇が、新憲法では象徴天皇としてですが、天皇としての地位にあり続けることは、この世襲規定によって完全に擁護されることになります。

 また両勢力の妥協であるということは、昭和天皇が、天皇になるのはいやだ」と言い出す可能性がないばかりでなく、「天皇の役割を果たす能力に欠ける」という可能性、さらに天皇憲法擁護義務を拒否する可能性も、最初から排除されていることを意味します。

 つまり、血筋によって「自動的に」天皇になる、それは私が前回に「血統万能天皇制」と呼んだものです。それは、旧来の勢力構図を前提とした旧来の憲法解釈では、「自然」なものです。

 天皇になるための必要条件として、血統条件以外に、意志と能力、憲法擁護義務への忠誠を考える必要がなかったわけです。

 そして、一度この「血統万能天皇制」が採用されれば、この「世襲条項」が、未来へもそのまま同じように「血統万能天皇制」として適用されるものと観念されたのも「自然」なことといえましょう。 

 しかし、平成天皇への代替わり、平成天皇の実践は、「血統万能天皇制」を変える可能性、必要性を明らかにするものとなりました。

 第一に、平成天皇は、就任時に、憲法擁護の宣誓を行ないました。

 私は、本来昭和天皇も、新憲法の成立時に、それを行なうべきだったと考えますが、ありませんでした。

 ともかく、この平成天皇の行為は、多くの人々に、新しい天皇の姿勢・あり方を印象づけるものとなりましたし、憲法の下での公務員と並ぶ天皇憲法擁護義務の存在を目に見えるものとして、改めて意識させるものとなりました。

 「万能」なのは、天皇ではなくて、憲法そのもの(=主権を持つ国民)なのだ、という単純な「真理」を目に見せてくれたのです。

 憲法学では、このことを、「(象徴)天皇制の廃止は、憲法改正の限界には入らない」という難しい言い方をするようです。

 私は、「天皇がいなくなっても、不都合なく、実質的に今の憲法のままで(形式的にいえば、天皇に関する条項を削除するだけで)、ただちに共和制に移行できる」ということを書きましたが、同じことですね。

 さらに第二に、今回の天皇の生前退位をめぐる「お言葉」は、天皇の地位(役割)にあるための「能力」さらに「意志」の問題も、非常にはっきりと提起するものとなっています。

 高齢などの理由によって、体力的にも無理が出てきても、そして本人の意思に反して働けというのは、私が「奴隷的天皇制」と呼んだものです。

 このことも、従来の憲法解釈が含んでいる問題であることが、「お言葉」によって、明らかになったのです。

 世の中のこと、社会、政治といったものは、理屈より実践が先立つものであり、実践によって、旧来の理論が挑戦を受け、新しい理論ができてくるものです。

 とはいえ、むしろ私のような素人に言わせてもらえば、天皇が「お言葉」のような形で提起している問題に対し、憲法学がほとんど準備をしていないように見えることは、あまりに既存の理論体系に縛られすぎている結果ではないか、と憂えざるを得ません。

 もし、共和制対天皇制の2つの勢力の対抗という基本構図が大きく変化したとすれば、旧来の解釈は変わる可能性、変わらなければならない必然を持つでしょう。

 私は、現天皇の就任時の憲法擁護の宣誓に始まる今日までの実践は、旧来の構図における天皇制支持勢力のリーダーとしてのものとは異なると考えます。

 それは、妥協はあるが対立が維持されたままという旧来の2つの勢力という構図自体を変えようとするものです。

 つまり現天皇による実践は、天皇自身が、憲法の基本原理・価値(それは明らかに共和主義的なものです)や象徴天皇制という新しい制度そのものを、積極的に新しい価値として受け入れようとしたものであるといえます。

 私の新しい解釈(世襲=必要条件論)は、こうした新しい事態、天皇の新しい実践(憲法の基本原理の擁護、支持)に対応して、「世襲」の条項を、できる限り、共和主義的な発想や人権尊重の規定に則して、解釈し直したものです。

 次回には、同じく、世代交代によって生じてきた、「象徴」条項に関わる憲法解釈の重要な変更の可能性と必要性について議論したいと思います。

 もっと議論が難しく、複雑になります。しかしやはり非常に重要な問題です。

*1:もしかしたら、すでに誰かが唱えていて、新しくないかもしれません。また、おそらく、「人間的公務員『天皇』制」論は、戦前の「天皇機関」説に似た骨格を持っているだろうと思います。いずれの点についても、私は専門家でなく、私の議論の目的は、そういう方向での厳格さを求めることにはなく、現在の政治的課題を明確化する方向で議論を活発にすることにあります。

人間的公務員「天皇」制のために(4)--ザ・ピープル、しっかりせよ!

 今日も少し、本論から脱線します。

 天皇の「お言葉」に関して、法律家でない人達の論評の中に、「重い問題提起だ」という意見と「これは、第2の天皇人間宣言だ」という意見があります。

 

 私は、これらの論評に共感するものです。

 そして、世論調査を見ますと、

問い)現行制度では、天皇は生前に退位し、皇位を譲ることはできません。 あなたは、天皇が生前に退位できるようにすることをどう思いますか。

 

答え)できるようにした方がよい --86.6%

 

共同通信による8月8、9日調査)

 

とのことです。

 一見すると、基本的にまともな方向へ話が進んでいきそうです。

 しかし、私はかなり不安を持っています。

 今日のサブタイトルを、「ザ・ピープル、しっかりせよ!」としました。

 ザ・ピープルというのは主権者たる国民のことです。

 ですから、本来、「しっかりせよ!」等といわれる存在ではなく、最高の存在です。

 しかし、あえて自らと仲間を叱咤激励し、この不安を払拭しようと思います。

 

 「ザ・ピープル、しっかりせよ!」

 

 原発も、秘密保護法も、戦争法も、反対がかなりの多数を占めていました。

 ところが、何故か、少し時間が経つとずいぶん様相が変わってしまいました。

 確かに、安倍ファシズム政権は、嘘や騙し、アメとムチ、論点ずらし、権力濫用、色々やりましたが、私から見るとそれほど、巧妙でも精緻でもないやり方でした。

 自分が、主権者としての国民=ザ・ピープルだ、という自覚があると、そう簡単に変われるものではないと思います。

 ザ・ピープルとしての自覚があると、すぐにインチキが直感できます。だまされないはずです。

 生前退位の問題で、天皇のメッセージが、憲法違反だというもっともらしい意見があります。

 これについて、主権者としての意識を明確にして考えてみましょう。

 例えば、この共同通信のアンケートの中に、次の結果があります。

 

問い) 今回のビデオメッセージをきっかけに生前退位を可能にする法整備が進む可能性があります。 あなたは、このことが、天皇が国政に関与できないとする憲法の規定上、問題があると思いますか。

 

答え)問題がある-----16.2%
      問題はない-----72.6%
   分からない・無回答-11. 2 %

 

共同通信による8月8、9日調査) 

  

 何か、うさんくさい質問ですね。

 この質問の中の「このこと」とは、「法整備が進む」ことです。

 これは、実は、次の2つの全く別のことを、わざとごちゃ混ぜにして、「問題がある」という答えを誘導しようとするものです。

 

 (1)「ビデオ・メッセージ」

    (2)「生前退位を可能にする法整備が進むこと」

 

 (1)「ビデオ・メッセージ」が、「天皇が国政に関与できないとする憲法の規定上、問題がある」という論理は、それなりに、憲法論として成立するでしょう。

 ビデオ・メッセージを発する、という行為が、憲法規定に反する疑いがある、という論建てです。

 

 他方、

 (2)「生前退位を可能にする法整備が進むこと」が、「天皇が国政に関与できないとする憲法の規定上、問題がある」ということはあり得ません。

 この2つは、明確に区別しなければなりません。それぞれについて、別々に議論すべきことです。

 そして、重要なことは、この2ついずれについても、主権者たる国民として考え、決定するということです。

 まず(2)について見ましょう。

 (2)では、国民が必要、妥当と思うことを決めれば良いのです。

 つまり、憲法に書かれた通り、国民主権でやればいいだけのことです。

 法整備を進めるかどうか、法整備の中身をどうするか、国民、議会が議論します。

 その始めや、途中に、天皇天皇の家族の意見を聞くことは「必要」あるいは「義務」ではありません。

 しかし、国民、議会が、そうした意見を何らかの意味で参考にしたいと思い、そのほうが適切な決定ができると考えて、天皇側に質問を行なうことはあり得るでしょう。

 基本的に、「天皇は国政に関する権能を有しない」という憲法の規定は、天皇の権能・行動や政府の行動に縛りをかけるものであって、国民の主権者としての行動に制限をもたらすものではありません。

 天皇の意見を聴取するかどうかを考えて、するとすれば、それは主権者たる国民が、(主権者として一方的に)正しい、妥当な決定を行なうためのものです。

 (前回まで示してきた私の憲法解釈では、天皇候補者は「交渉」はできませんが、「実質的な拒否権=天皇に就任しないこと」は可能です。)

 もちろん、共和制になることを国民が決定する場合は、天皇側の意見を聞く「必要」は全くありません。

 国民あるいは議会の多数が主権者として決定の結果、天皇の希望が100%、あるいは150%、200%実現することもあるかもしれません。逆に、全く何も認められないこともあるでしょう。

 いずれの場合も、それは天皇による国政への関与でも何でもなく、ただ、主権者たる国民による決定です。

 次に、(1)について見ましょう。 

 中には、天皇のメッセージの内容は、「賛成、あるいは必ずしも反対ではない、だが、(1)メッセージを発したこと自体が、憲法違反だ」という人もいるでしょう。

 そうした立論は、憲法論としては可能だと思います。(前回、私は、そうした立場に立たないということを書きましたが。)

 そうした立場の人は、メッセージを発したこと自体を批判すれば良いでしょう。

 主権者として当然です。

 当然どころか、憲法違反に対し戦う(批判する)のは、主権者としての責務ですらあるのです。

 ところが、共同通信アンケートは、「ビデオ・メッセージ」を問題にしているように見せながら、問題の焦点を生前退位を可能にする法整備が進むこと」にしてしまい、「法整備が進めば、憲法上問題があり」、「法整備が進まなければ、問題がない」という構図に、回答者の意識を引き込んでいます。

 先に述べたように、主権者としての自覚があれば、こういうインチキに振り回されないでしょう。法整備を進めるか進めないかは、100%国民が決めることです。

 それが天皇の希望に沿ったものとなるか、ならないかということと、すでになされた天皇発言の違憲性の有無とは何の関係もありません。

 アンケートがなすべきであった妥当な質問としては、例えば、

 

 「天皇は国政に関する権能を持たない、とする憲法の規定があります。今回のビデオメッセージについて、この規定に反すると考えますか?」

 

というものでしょう。

 

 もしかしたら、ビデオ・メッセージの違憲性の問題と法整備を進める・進めないの問題を絡めようとする人の中には、違反に対し、「何らかの罰が必要だ」という意識があるのかもしれません。

 メッセージは違反であり、違反者に対する「最強」の罰は、違反者の希望を(たとえ内容的・人道的にそれが正当・妥当であったとしても)認めないことだ、というのです。

 これも、強いて言えば、主権者意識といえばいえるかもしれません。しかし、主権者意識というよりは、何かサディスティックで、権威主義的な匂いがしますね。

 実際のところ、「違反者の希望を認めない」という罰を必至とすることは、論理的に破綻していて、その「論理」の適用は、権威主義者の都合や利害による恣意とならざるを得ないのです。

 このことは、次の例を考えれば、すぐわかるでしょう。

 天皇自民党憲法案の支持者になって、ビデオ・メッセージ第2弾でその旨を披露したとしましょう。

 そうすると、この「論理」に従うと、自民党憲法案は、実現が許されないことになります。

 めでたいことですが、実際にはこうはならず、権威主義者達は、必ず、「あれは天皇の本心ではない。自民党案を阻止するために、言い出したのだ」と言い出すでしょう。

 この種の(1)と(2)を絡めようとする「論理」の枠組み(違反に対する罰という枠組みや、あるいは、天皇の意見を認めるとそれは憲法違反を認めることになるからダメという枠組み)は、単なる口実であり、それはただ「自分にとって不都合な法の整備を進めたくない」人々の政治的な利害を隠すためのものであることを見抜く必要があります。

 今日は(も?)、少し脱線しましたが、私はつくづく、細かい議論以前に、しっかりした主権者意識を持つこと、育てていくことの重要性を感じます。

(新版)人間的公務員「天皇」制のために(3)--象徴天皇制は、「血統万能天皇制」でもなく、「奴隷的天皇制」でもない

(これは、9日にアップしたものを、論理的に整理し直し、10日の午前にアップした、新しいバージョンです。)

 

 「お言葉」を文章で読みました。

 いつも思うことですが、天皇と皇后の文章の日本語はとても美しいですね。

 教育、教養、人格が出てくるのでしょう。

 さて、今日は昨日の続きというよりは、特にある程度法律や憲法を知っている人、あるいは法律、憲法のプロの人達の反応を見て、私の驚いていることを書きます。

 

 1.必要条件としての「世襲」--皇位有資格候補者の決定

 

(第2条)
皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

 

 私の理解では、この条項の「世襲」は、血統が必要条件であることを示しています。 

 つまり、この血統条件を満たす者は、皇位資格を有する候補者となります。

 「世襲」ということの意味については、後で議論します。

 今日ここで議論したいのは、従って、世襲による皇位の継承は、「自動的」に行なわれるのではない--世襲のための血統条件を満たしても、それは天皇になる十分条件ではない--ということです。

 こうした主張の根拠、そこから導かれる重要な結果を以下で示します。

 

2.憲法に反する「血統万能天皇制」

 

 仮に、世襲による皇位の継承が、「自動的」に行なわれる--世襲のための血統条件を満たせば、それは天皇になる十分条件である--としましょう。

 私は、これを「血統万能天皇制」と呼びます。極端な例を挙げましょう。

「形だけ天皇にさせられても仕事なんかしない」という有資格者(天皇の長男)が現れたら、どうでしょうか?

 あるいは、「僕は絶対天皇になる。なったら、憲法を足蹴にしてやる。この憲法は大嫌いだ。憲法尊重の誓いなんて真平で最初からする気はないよ」と公言している場合はどうでしょうか。

 「天皇の地位は欲しいんだ。どうしてもしなきゃならないなら、最初だけは憲法尊重の誓いは嘘でやるかな。なっちゃえばこっちのもんだからな」という有資格者が天皇に就任して、憲法無視の行動を始めた場合はどうでしょうか。

 それでも「天皇の長男は天皇だ」「死ぬまで、天皇天皇だ」というやり方--これが「血統万能天皇制」です。

 明らかにおかしいですね。

 しかし、私が、「第2条のいう『世襲』は、血統が必要条件であることを示している」「血統条件を満たしても、それは有資格者候補となったに過ぎない」、と主張する憲法上の根拠は何でしょうか?

 それは、憲法の中に、天皇であるための(従って、「天皇になるため」でもある)必要条件を規定した条項が、他に3つあるからです。

 その第1は、すでに前回見た、第4条と第7条の天皇の国事行為を規定した条項です。これは、これら2つの条項を合わせて一つのセットと見た方がいいでしょう。

 このセットは、天皇の地位にある者の任務を規定したものですから、その任を果たす意思及び能力があることが、当然の条件(必要条件)となります。

 意思と能力とのいずれかでも欠けている者は、就任することができず、あるいは就任後にそのような状態になれば、休職、もしくは退職(罷免)ということになります。

 第2の必要条件は、憲法第99条による「天皇や公務員の憲法尊重擁護義務」です。この条件を満たさない者、あるいは満たさなくなった者も、就任不可であり、あるいは退任を求められます。憲法尊重擁護の誓いをしない者は、有資格者候補で、就任意志と能力があっても、就任することはできません。

 要するに、「血統万能天皇制」は、憲法自体が明白に否定しているのです。 

 

3.憲法に反する「奴隷的天皇制」 

 

 「血統万能天皇制」の問題は、仕事をしない天皇憲法を守らない天皇が地位にあることの問題ですが、「奴隷的天皇制」の問題は、本人の意思に反する形で就任を迫る場合です。 

 例えば、天皇の長男は、天皇が死んだら、いやでも必ず天皇を継承しなければならないのでしょうか。

 あるいは、私達は無理やりでも、長男を天皇の地位につけるのでしょうか。

 無理にやらせるのが、国民の総意、国会の多数であれば、合憲で、皇位継承有資格者による天皇就任拒否は違憲ですか? 

 そういう主張を、私は、「奴隷的天皇制」と呼びます。

 「奴隷的」というのは、ただ本人の意思に反するからだけではなく、家族ではない他人の意思(主権者たる国民の総意)に従わなければならないからです。

 憲法の定める象徴天皇制が、このような奴隷的天皇制であるということは、私にはとても理解できません。

 逆に、私の理解では、「奴隷的天皇制」は、憲法違反です。

 憲法に従えば、仮に、世襲のための血統条件を満たし、職務遂行能力を満たし、仮に就任した場合に憲法尊重擁護義務を果たす気持ちがあるとしても、そもそも、就任の意思がなければ、皇位を現実に継ぐ義務はありません。

 仮に、理由を言っても言わなくてもいいのですが、「絶対いやだ。死んでもいやだ。僕は天皇になりたくない」と言う者が現れたら、天皇にならなくてもいいのです。

 私は、前回も書いたように、皇位有資格者でも本人に就任の意志がなければ、就任拒否できると考えます。

 このように主張する憲法上の根拠は、憲法22条1項が、「何人」にも職業選択の自由を保障しているからです。

 通常の憲法解釈では、天皇の場合は、先の第2条の「世襲」規定によって、「自動的に」天皇となるので、天皇基本的人権からは、職業選択の自由が消失するとされています。

 これは、前回見た「国政に関する権能を有しない」という規定によって、選挙権などが奪われたケースに似ていますね。

 しかし、この解釈は、私の意見では、まさに皇位有資格者候補の人権を侵す違憲の解釈です。

 先に論証してきたように、第2条は、天皇資格の必要条件を述べたものに過ぎないのですから、それを理由に、有資格者の職業選択の自由という権利を奪うことは許されないのです。

 当然、皇位有資格候補者も、天皇になる前であれば、この自由を保証されています。

 ですから、憲法は明白に、「奴隷的天皇制」も拒否している(それが発生しないように設計してある)というべきです。

 ただし、一度天皇に就任した場合は、退任についてその時期や理由など、何らかの制限を受けるのは、どのような雇用でも、それぞれの契約関係による制約を受けるのと基本的には同じです。

 とはいえ、一度就任したら、本人の意思と関わりなく、死ぬまで働け、というのは、またそれも奴隷的天皇制のようなものです。

 先に書いたように、憲法は奴隷的制度が発生しないような設計になっているのですから、一度天皇に就任すると、その後は、奴隷的になってしまう、ということが生じてしまうのは、下位の法律(皇室典範)の制度設計がだめ、ということです。 

 私に言わせると、今日議論したことは、ごく当たり前なのですが、ほとんどの論者が違う認識を持っているようです。

 特に、リベラルな人が、「奴隷的天皇制」を主張するのは、天皇制憎しから来るのか、少しびっくりしました。

 

 

人間的公務員「天皇」制のために(2)

 もう、天皇の生前退位に関わる「お気持ち」が発表されました。その前に、このシリーズは、書き終わるつもりでしたが、間に合いませんでした。

 ただ、意味がなくなってしまうことはないので、なるべく要点に絞る形で、続けます。

 

 1.革命としての国民主権天皇の国民化

 

憲法前文)

・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、・・・

 

は、革命的な瞬間を表現したものです。それは、天皇主権を、国民主権に変更した瞬間です。

 (前にも書いたように、宮澤「8月革命」説は、彼の保身の論理です。)

 そして、この瞬間天皇は、一国民となりました。

 

2.地位(役割)としての「天皇

 

(第1条)

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

 

 ここで、まず重要なのは、憲法上の「天皇」は、地位(役割)であって、生物的な存在としての天皇ではないことです。続いて「この地位」といっていることは、この当然のことを確認しています。第2条でも、「皇位」という表現を用いて、同じことをいっています。

 

 3.総意による「一方的」制度と「奴隷的」天皇

 

 第1条で、もう一つ重要なのは、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と述べていることです。

 ここで、日本国民の内、後に明確にされる、主権を有しない国民(=天皇)と主権を有する一般の国民に区別がなされ、後者の総意として、前者(天皇という地位)が生物的存在としての天皇皇位継承者に与えられる、というわけです。

 これは、憲法が、一般国民による革命的な性格を持っていることによる、一方的な宣言であることを反映しています。

 つまり、天皇の意思を聞くことなく、一方的に「天皇になれ」(=天皇という地位・役割を受け入れて、その仕事をしろ)といっているのです。

 では、天皇やその地位の継承者達が、「天皇になること(その地位の受け入れ)」を拒否することはできないのでしょうか?拒否すると、憲法違反として重罰を受けることになるのでしょうか?

 もちろん、そうではありません。この憲法は、人権の尊重を基本としており、いやでもやらせるという奴隷制を、誰に対しても(天皇に対しても)、あてはめようとすることはあり得ないからです。

 もし、天皇及び皇位継承者達全員が「いやだ」と言い出したとすれば、当然、憲法(の基本精神)に基づいて、それは受け入れられます。

 その場合、それは皇族による「共和革命」を意味することとなり、ただちに、日本は共和制に移行することとなるでしょう。

 皇族は、主権者としての国民の一部に復帰することになります。日本は、主権者としての国民のみによって構成される国(共和制国)になります。

 現在の憲法は、天皇に関わる条項、文言を削除すれば、そのまま有効であり、実質的な混乱は全くないまま、共和制は実現できます。

 上記は、一般国民による天皇の地位の付与に対して、天皇皇位継承者達による、それに対する「実質的な拒否権の存在」を認めることを意味します。*1

 ただし、それは、皇族側によるその地位や役割の内容についての「条件闘争」の可能性を認めるものではありません。

 憲法の規定が、一般国民による一方的宣言であるというのは、あくまで、「地位・役割内容は一般国民によって決めてある」という意味であり、これは重要なことです。

 私は、今回の天皇による生前退位の問題は、広い意味でのこの「実質的な拒否権」の表明であると理解します。

 従って、一般国民の側からは、これを認め、--「奴隷的」天皇制の主張者は賛成しないでしょうが--皇位継承者達に、受諾の返答を促して、ことを進めるのが妥当と考えます。

 なお、付け加えておくべきは、憲法施行後の1947年9月に昭和天皇が行なった「沖縄処分」発言のような、明白かつ重大な憲法違反に対しては、一般国民(政府)は、直ちに最低限、天皇の罷免を断行し、さらには共和制への移行も含めた議論を行なうべきだったと考えます。

 

4.「憲法を象徴する公務員」としての「象徴天皇

 

 

(第4条)
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

 

 この条項は、天皇主権がいかに国の進路を誤り、国民に犠牲をもたらしたか、という歴史的反省に基づいて、象徴天皇の権限、活動を極限的にといえるまで制限して、国民主権の実質を確保しようとするものです。

 「天皇この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ」というのは、何を意味しているのでしょうか?

 それは、先に指摘したように、「天皇」という言葉の代わりに、「天皇の地位・役割」という言葉を入れてみると、はっきりします。

 つまり「天皇の役割は、この憲法の定める国事に関する行為を行なうのみである」といっているのです。この国事行為のリストは、次の通りです。

 

(第7条)
天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
1 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
2 国会を召集すること。
3 衆議院を解散すること。
4 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
5 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の委任状を認証すること。
6 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
7 栄典を授与すること。
8 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
9 外国の大使及び公使を接受すること。
10 儀式を行ふこと。

 

 これらの行為は、戦前の天皇制の下では、天皇が権威、権限を持って行なったことなのでしょう(私はこの点についてのすべては確認していません)。

 しかし、この日本国憲法の下では、それらの国事行為は天皇による、象徴的な形で国事に権威を与える、まさに「象徴的行為」である、ということを、天皇は「国政に関する権能を有しない」とすぐに明確にする形で念押しをしています。

 また、国政に関する権能を有しない」という規定は、それ自体として、天皇から選挙権が剥奪され、さらに政治的な発言が禁止される根拠とされます。

 つまり天皇は、「国政に関する権能を有しない」タイプの国民と区分され、彼が有する人権ということについていえば、重要なものが剥奪されていることになります。

 上記から、象徴天皇の仕事は、このリストにあるだけ、それ以外してはいけない、というのがこの憲法の本来的な姿(意図あるいは主旨)であることは、明白だと思います。

 例えば、特に、国会開会式における天皇の「お言葉」というものは、憲法が認めるならば、当然このリストに明示的に出てくるべき性質のものです。

 しかし、実際には憲法が挙げる10項目に入っていないのですから、私の目からは、それを行なうことの違憲性は明白です。憲法学者でこの合憲性をいう人は、本筋でないところからこじつけているとしか思えません。

 ただ、私は、現時点では、このリスト以外のいわゆる「公的行為」というものも、象徴天皇の役割に含めていいと考えています。ただし、それは、「この憲法に沿ったもの」でなければなりません。

 また、長くなっています。「この憲法に沿ったもの」とは何なのか、その点について、次回に続けます。

 

*1:この論点については、岡口基一氏のツウィートで、学者達の議論がすでにあることを、前回の記事に対するpikoamedsさんからのコメントで知りました。ありがとうございます。

人間的公務員「天皇」制のために(1)

 このブローグでは、「天皇の政治的行為、発言をめぐって」のシリーズ等、天皇制について何回も書いてきました。

 8日に、生前退位に関わって、天皇のビデオ放送があるということで、安倍首相のコメントやその他で百家争鳴となる前に、私の基本的考えを明確化しておこうと思います。

 昔、高校生の時くらいに、樋口陽一氏かどなたか記憶がはっきりしないのですが、天皇を「シンボルマーク」のようなものとして理解すればいい、という議論を読み、何と単純明快、すばらしい主張だろうと思ったことがあります。

 ただ問題は、天皇は、物や人形ではなく、生きた人間だということです。

 例えば、澤藤統一氏のブローグを拝見していると、徹底して政治的発言はだめ、という意見です。上記のシンボルマーク論に近いと思います。

 澤藤氏は、2004年の園遊会で、当時東京都教育委員の米長邦雄氏が「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と話しかけたのに対し、天皇が、「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と返したことについて、これを天皇の政治的発言として厳しく批判しています。

 私は、その後、天皇制については深くは考えてきませんでしたが、この数年来シンボルマーク論はだめだ、と感じてきていていました。

 特に、安倍ファシズム政権が成立して以来の天皇や皇后の発言・行動を見て、改めて考え直す必要を感じました。そこで、ある程度調べながら、書いたのが冒頭で触れたこのブローグでの発言です。

 それらで言いたかったこと(およびわかったこと)は、第1に、天皇が意志を持った人間であるために、善きにつけ悪しきにつけ、政治的な発言を制止することは、制度的・物理的に不可能だ、ということです。

 制度的・物理的不可能性をどうにか超えようとして、完全に政治的発言の制止を行なおうとすれば、それは、天皇に対して、非人道的なものとなるでしょう。

 上記の園遊会の例でいえば、澤藤氏は、「2004年10月29日(金)米長邦雄を糾弾する」において、次のようにコメントしています。

天皇は黙っておればよい。誰とも口を利かぬがよい。それが、人畜無害を貫く唯一のあり方なのだ。彼の場合、何を言っても「物言えばくちびる寒し秋の風」なのだから。

  ここまで来ると、やはり澤藤氏の議論は、天皇に対してかわいそうではないでしょうか。

 第2は、今の天皇が生きているうちに、象徴天皇制について、憲法の平和主義・国民主権基本的人権尊重に、沿った新しい解釈と実践を定着させることが、政治的に好ましい、ということです。

 何故なら、現在の天皇は、憲法の基本精神やおそらくほぼすべての条項に賛意、敬意を抱いていると思われます。このような理想的な状況は、今をおいてはまずあり得ないからです。

 私の考える新しい解釈と実践とは、基本的に、天皇が公務員のようなものとして、憲法平和主義・国民主権基本的人権尊重の生きた広告塔・宣伝マン(憲法的象徴=憲法によって理想が示された日本の象徴)であるとすることです。 

 私は、現天皇が生きているうちに、と書きました。しかしそこで書かれたことは、まず実現し得ない、単なる私の願望にすぎないものでした。

 ところが、全く思ってもみなかったことに、今、天皇の側からの新しい提起がなされようとしています。

 それは、我田引水でなければ、私が願っていたような方向と重なるように思われます。

 上で、「全く思ってもみなかったことに」と言いました。しかし、考えてみれば、私のいう象徴天皇制についての新しい解釈と実践というのは、私がオリジナルに創造したものではなく、実際のところは、現天皇の実践を「理論化」「憲法解釈論として顕在化」したようなものと考えていただければよいと思います。

 例えば、上記の園遊会での米長氏に対する天皇の反応は、憲法国民主権の宣伝マンとしての実践を示すものです。

 従って、今回の生前退位の提起が、私の議論と重なる方向を持つのは、当然のことともいえるかもしれません。

 ところで、以上のような憲法解釈は、前にも書きましたが、全く素人のそれで、緻密な法学論からは相手にされるようなものでないことはわかっています。

 しかし、私の素人としての知識によれば、法理論(解釈)の革新は、すぐれた実践を理論化することで得られる、とのことです。

 素人と玄人の違いは、この理論化のところにあって、まあ、私の議論が「理論化」というようなものではないということもわかっています。

 そこは、玄人に任せるとして、私の問題提起の重要性(現在的な政治的必然性)は、理解していただきたいと思います。

 次回に続けます。

 

都知事選の敗北と野党共闘のゆくえ(2/終り)

 前回、民進党に不安と不信を覚える、と書きました。このことを別の角度から言います。

 私は、参院選も野党共闘は敗北したと考えています。そして、都知事選での敗北も合わせ、そのこと自体は、基本的に、安倍ファシズム政権に反対する勢力が力不足であった結果であり、しかたがなかったと思います。

 しかし、同じ敗北するにしても、「野党共闘」という名前でなく、例えば「戦争法廃止の市民・野党運動」といった名前の共闘組織を作り、それを常に名乗った形で選挙運動を行なって欲しかったと、改めて強く感じます。

 そうすれば、マスコミも、「野党共闘」ではなく、「戦争法廃止の市民・野党運動」あるいは、「戦争法廃止運動」等と、その名を以て報道したでしょう。

 これはつまらないことのようですが、私の意見ではとても重要なことです。

 運動に参加している人や運動を知っている人にとっては当たり前のことでも、一般の人にとっては、野党共闘が何を目的としているかは、あいまいな場合が多いでしょう。

 「安倍政権に反対している人達・野党の選挙時の集まりらしい」程度の認識が普通ではないでしょうか。

 そうであったから、自民党の「野合」という攻撃がかなり説得力を持つことになってしまったと思います。

 「戦争法廃止運動」という名前を選挙で使えば、そこには共通の目的が明示されており、マスコミがいやでもそれを流してくれるのですから、「野合」批判の余地がなく、無理に批判しても、効果はずっと低まるでしょう。

 また、「戦争法廃止運動」を名乗れば、参院選や都知事選が去年の夏からの戦争法反対運動の継続であることが明らかになります。

 都知事選で、戦争法廃止は国政の問題で関係ないという攻撃がありました。しかし、結果論という面もありますが、中途半端に平和、憲法等に触れて敗北するくらいなら、都政に関するしっかりした政策を並べつつも、戦争法廃止を正面に掲げて敗北したほうが、ずっと意味があります。

 今すぐ賛同が得られなくても、運動がまだ少数派であっても、一般の人に「戦争法廃止の運動が継続している」という認識を持ってもらうことが重要なのです。

 この秋に自衛隊南スーダンに駆けつけ警護を目的として派遣されようとしています。そこで、死傷者が出た時に、どれだけの人が、野党共闘のことを思い出すでしょうか?

 今のように激しくニュースが消費される時代に、マスコミもそうした角度からの振り返りもほとんどしないでしょうし、運動と関わりのない一般の人にとっては、精々のところ、「野党共闘ってあれなんだったっけ、安倍政権反対みたいなこといってたけど」といったところどまりでしょう。

 これに対し、もし「戦争法廃止運動」という名前が一般の人々の間で少しでも記憶に残されていれば、改めて、「戦争法がなければ、死傷者もなかった」という運動の主張の説得力が増し、そうした主張が、困難な中でもより容易に拡がるでしょう。

 では、何故、「戦争法廃止の市民・野党運動」といった目的を明示してマスコミが常にそれを呼称してくれるような組織ができなかったのでしょうか。

 私は、内情を知る者ではないので、想像する他ないのですが、ほぼ間違いないと思うのは、民進党がそれを拒んだということです。

 民進党は、議席獲得のために票は欲しいけれども、自党の組織のあり方としては何も変えることはなく、政策的にはできるだけあいまいにしておきたかったのです。

 民進党は、市民と4野党の協定には、サインしたものの、それはなるべく、内輪の話に止めておいて、いつでも自分の都合で引っくり返せるように、というのが本音です。

 引っくり返して、市民や共産党からの批判があっても、世間一般からの批判さえなければ、どうでもいい、と考えているのです。

 私は、今回の野党共闘を取りまとめてきた市民運動の労を多とする者であり、私のようにそうした実践に取り組もうとしない者が、邪魔をするようなことを慎むべきだと考えてきました。

 実際、「野党共闘」で勝利していれば、私のような批判は生じなかったでしょうし、もしかしたら民進党も、恒常的な共闘組織の結成や呼称使用に同意するといった、良い方への態度変更があったかもしれません。

 しかし、敗北が明白となり、また現時点では、民進党は現状の「野党共闘」よりさらに後退することが予想されます。

 民進党が、本来まじめに議論すべきは、野党共闘をどうするか以前に、戦争法をどうするのか、自衛隊の駆けつけ警護をどうするのか、ということでしょう。 

 野党共闘という手段が先行した戦術(戦略?)は、民進党に、政策協定で約束された政策目的をどのように誠実さを持って追求するかという、本来求められる態度とは異なった、何かとんでもない傲慢さをもたらしているように感じます。

 これでは、私も一般の人と同様に、「野党共闘って何?」「ただ議席が欲しくて、反安倍で集まった人?」と聞いてみたくなります。

 共産党としては、今や野党共闘の実質よりも、「野党共闘を尊重する」というポーズが売りとなっているように思えます。ですから、現時点で共産党から野党共闘路線を止めることはないでしょう。

 しかし戦争法廃止という原点に戻って、目的を明示し、それに沿ったできる限り幅広い運動--例え現在それが少数派であるとしても--が必要だと思います。

 私はかつて、統一戦線とは、勝利するということから逆算して構想される戦術だと言いましたが、それは目的をあいまいにしていいということではありません。

都知事選の敗北と野党共闘のゆくえ(1)

 都知事選では、石原慎太郎氏と同じ極右の人物である小池ゆりこ氏が勝利し、野党共闘の鳥越俊太郎氏は、自民公認の増田寛也氏にも負ける残念な結果となりました。

 都知事選の敗北について、いくつかの議論を読みました。多くが、鳥越氏が都政を知らないまま、安易に立候補し、野党共闘勢力が、それを不透明な形で支持した経緯を指摘し、批判しています。

 私は、日本全体の政治状況に強い危機意識を持っていますので、それらの論評とは別に、この機会に、都知事選だけでなく、より広い角度から、この数年を振り返りつつ、野党共闘について議論をしたいと思います。

 私は、野党共闘の実現過程での内情を知る者ではありません。しかし、基本的にそれを支持してきましたし、これからも他に筋の通った選択肢が現れない限り、それを支持するつもりです。

 ただ、私は安倍ファシズム政権に反対する統一戦線という立場から、野党共闘の問題点を指摘してきましたし、現時点でのその問題の重さを、改めて述べたいと思います。

 この秋には、南スーダンへの駆けつけ警護のための自衛隊派遣が迫っています。

 そこで死傷者が出てしまう可能性が現実のものとなっています。

 死傷者が出た時に、日本はどうなるのでしょうか。

 テレビで、「戦争法が成立していなければ、このような事態にはならなかった」と発言するコメンテーターが一人でも現れるでしょうか?

 野党共闘の議員はどう発言、行動するでしょうか?

 「今こそ、戦争法を廃止すべきだ」と発言すれば、それはすぐに、「国のための死傷者を、政治利用するな」という、それこそ「政治的」な目的を持った、死傷者を政治利用する勢力に操られた人々の発言によって炎上させられるでしょう。

 政府は、建前が「駆けつけ警護」なので、「これは戦争の死傷者ではない」と言うでしょうが、同時に実際には、戦争時並みの扱いのための法律や手続きを制定するでしょう。

 そして、この問題を、政権の都合のいいように「聖域化」して、報道や社会に対し、関連する情報とその解釈を独占、統制するようになるでしょう。

 最近のアメリカの事例もヒントをくれます。

 アメリカの共和党のトランプ大統領候補は、言いたい放題をいってきて、それが通ってきた人物です。しかし、軍人遺族の民主党大会での発言をけなしたことが、関連する多数の軍人遺族から謝罪要求の公開書簡を始めとして、共和党内からも強い批判を呼び起こしています。大統領選に影響を与えつつあります。

 軍人の犠牲者--特に今回のように英雄視されていた犠牲者--は、アメリカ人にとっての「聖域」を構成する「聖像」となっているからです。

 今の日本の流れを見ていますと、日本も、あっと言う間にそうなってしまうでしょう。

 私は、ただ、「戦争法が成立していなければ、このような事態にはならなかった」というように感じる人が一人でも多ければ、そうした流れをくい止める力を増やせると思います。

 そこで、野党共闘の話です。先に野党共闘の議員がどう発言、行動するか?という疑問を提出しましたが、実際のところ、どうなのでしょうか?

 参院選にあたっては、次のように政策協定が結ばれました。

民進、共産、社民、生活の野党四党は七日、参院選での野党共闘を呼び掛ける市民団体「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」との間で、七月の参院選に向けた政策協定を結んだ。

・安全保障関連法廃止

立憲主義の回復

改憲阻止

などが柱。

・・・

・米軍普天間(ふてんま)飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)移設に伴う名護市辺野古(へのこ)への新基地建設反対

・環太平洋連携協定(TPP)合意への反対

原発に依存しない社会の実現に向けた地域分散型エネルギーの推進、

なども盛り込まれた。

 (2016年6月7日 東京新聞夕刊)

 

 ここには、安全保障関連法廃止が、第一番目に明記されています。私は、協定に調印したすべての政党と団体に、この約束を堅持することを求めます。

 しかし、正直なところ、特に民進党に関しては、不安と不信感を覚えます。

 次回に続けます。