hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

ファシスト達の願望、権力表出への欲望--徴兵制の復活

「デモの誘い真面目に読む日が来るなんて」金井柚季奈(21) 

 これは、東京新聞(2015.07.29)の平和俳句です。

 日常性とはっとさせられる真摯な瞬間が切り取られた、印象的な句でした。

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 昨日、ファシスト達の願望ということで、彼らが中国や朝鮮の人々に敗北した事実を否定し、武力的に圧倒したい思いを強く持っていることを述べました。

 このことを少し補足したいと思います。

 「合理主義的」な観点から、戦争法案が通っても徴兵制の復活はない、という人がいます。現在の戦争は、ハイテクであって、一定数に対し、集中的な訓練が一番合理的だからというのです。

 これは、ファシスト達の願望やその権力行使への欲望を理解していない人の誤りであり、さらに言えば、「自分のような合理主義こそが、社会を深く理解している」というような自己陶酔に基礎をおくものです。

 実際に戦争を行なう兵士達は、確かに本格的な訓練と覚悟を要請され、その意味では、一定年齢層の一部の者となるでしょう。

 しかし、ファシスト達は、「愛国」を若者に、すべての国民に押し付けること、それ自体をしたくてしようがないのです。

 彼らにとって、「愛国」の名の下に暴力的ともいえる超権力的な全体的な体制を作り、命令的な権力をふるうこと、それ自体が逃れがたい快感なのです。

 こうした国内的に全体主義的な体制をつくることへの欲望と、対外的に中国や韓国、北朝鮮に対し軍事的に優位に立ちたいという願望とは、一体のものです。

 ところで、戦争法案が呼び出す次のテーマとしての徴兵制に対する国民の不安を無くそうとして、安倍首相は、「徴兵制は絶対行なわない」、何故なら、それは憲法第19条の「何人も、・・・その意に反する苦役に服させられない。」を挙げ、徴兵制はこの苦役にあたるものであり、憲法違反だから、といっています*1

 この点について、「世に倦む日々」氏は、徴兵制と呼ばずに、「教育訓練」と称して行なうだろう、と指摘しています。いつも、鋭い指摘です。そこまでは、気がつきませんでした。

 「戦争」→「平和」と言い換える連中のすることですから、こうした言い換えは、言われてみれば当然です。

 それに、彼らにとっては、教育というのは、むしろ、こうした上からの権力的な命令と本質的に変わらないものであり、「教育的配慮」という名の下に、子供達に押し付けや支配を行なおうとすることがしばしばです。

 今行なわれている、大学からの人文学系研究・教育排除は、「新自由主義」という観点から解釈されています。確かに、新自由主義は政権による理由付けとして利用されているでしょう。しかし、私はこの政策が経済的合理性を主要な動機にしているとは思いません。

 日の丸、君が代の押し付けと並んで、これまで権力が入り込めなかった世界へ、権力的に命令を実施することの快感、これが主な動機であり、新自由主義はそれを合理化しているのです。

 すでに、長くなりましたが、どうしても付け加えておくことがあります。

 それはファシスト達への官僚による協力、「合理主義者達」の協力の問題です。このような協力なしに、ファシスト達は、その願望、欲望を現実化することは不可能でしたし、これからも不可能です。

 例えば、首相補佐官磯崎陽輔氏の「法的安定性は関係ない」発言が問題となっていますが、彼は、官僚出身の議員です。

 彼の場合は、派手で表に出た協力であり、ある意味では、実質性は低いかもしれません。様々な法案づくり、そのためのアイデア提出と言った点では、陰でもっと多くの官僚達が実質的な貢献をしています。

 そうした協力者達の動機や実態をつかむことは難しいことと思います。しかし、彼らが、ファシスト達と同等の罪を負うことを、私を強く指摘したいと思います。

 

 

*1:さんざん憲法を蹂躙する者が、憲法を楯にとるのは笑止ですが、私は、兵役が苦役にあたる、というのも違和感を感じています。となると、自衛隊の職務も苦役ということになるのでしょうか。その内、「御国のために身を捧げて尽くすことが、何で苦役であろうか」などと言い出すのがおちでしょう。