hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「気分はもう戦前?」--三浦瑠麗氏の議論批判V--権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属

 私は8月13日のブローグで、今後2つの軸、①日本国憲法の現代的意義、②社会科学方法論としての歴史の構造的理解、に拠って、このブローグを続けていくことを表明しました。

 今日の政治情勢を見ていますと、ますます、このような思想の根本に関わる問題について、自らの足場をしっかりしたものにすることの重要性を痛感します。

 私は、三浦氏に対し恨みがあるわけではありませんが、こうした立場から、氏の議論への批判を続けます。

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 前回は、何故「三浦氏のような議論の仕方が出てくるのか」「マスコミにしばしば登場するのか」という問題を、「安倍ファシズム政権の支持勢力とその背景にあるイデオロギーや知の状況という角度から議論」する等と言ったので、もうちょっと細かい議論を期待されたかもしれません。

 しかし、前回のような大筋を明確にした単純な把握も、今日のように情報があふれて方向性を見失いやすい中では、十分意味があると思います。

 国際政治学のアカデミックな論文を読みますと、他の分野と同様に、その分野の研究者にしかわからない「難しい」こと、「難しい」概念が出てきます。

 またその背後にある哲学についても、他の分野と同様に、その専門家--「国際政治学の哲学」の専門家--が「難しい」議論をしています。

 しかし、個々の研究者がどのような「専門的」な基盤をどのような深さで有しているかは別として、それぞれの研究視角の設定には、それぞれの世界観・国家観が規定的な役割を果たしています。

 私が前回明らかにしたかったのは、そうした世界観・国家観として、「権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属」があり、それが今日の経済状況の中で強化されつつある形で、ファシズム勢力を支持・「協力」するものとなっているということです。

 三浦氏の場合、インタビュー、メディアでの発言、ブローグ等におけるその軽い語り口の中に、アカデミックな論文では掴みにくい、多くの国際政治学達の中にある、

  「権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属」の世界観・国家観

が、わかりやすい形で正直に現れています。

 氏の3年前のブローグ記事(2014年06月15日)に注目しましょう。

 このブローグ記事は、安倍政権の集団的自衛権に関する閣議決定(7月1日)の2週間ほど前のものです。ですから、これから行なう氏のブローグの検討によって、氏のような議論が、いかに安倍ファシズム政権の政策を支えるものになって働いたのか、現在も働いているのか、が端的に示されることとなるでしょう。

 私は、氏の議論が「わかりやすく」「正直」なものであると書きましたが、そのことが理解できるためには、一般の読者にはある程度の注釈が必要でしょう。

 つまり、氏の自分勝手な論の進め方--最初にテーマとされたことからいつの間にか逸れていってなされる問題設定や論理整合性のない言葉づかい--に、真面目な読者ほど、ついていくことができないのではないかと思います。

 しかし、そうした論の進め方と氏の言いたいことの両方ともが、氏の世界観・国家観である「権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属」から来ているということ--そして、その「権力・軍事力崇拝」が、氏の国家とか安全保障の議論における規範的なものに対する蔑視的態度と一体化しているということ--を一度了解してしまえば、氏の議論はとてもわかりやすく、正直なものであることに気づくでしょう。

 具体的に、氏の議論を見ていきます。

 少し長いですし、ちょっと読んだところでは、わかりにくいかもしれませんが、まずは次の氏のブローグ記事(2014年06月15日)からの引用を読んでください。

 

集団的自衛権論争の本質

A.

 集団的自衛権をめぐる論争がどんどん盛り上がってきています。本稿でも他のテーマを論じる中でこの論点にも触れてきたつもりですが、最近、「で、三浦さんはどうなのよ」的なプレッシャーをいただくようになりました。泥仕合の感が高まっている論戦を眺めつつ、参戦する前から辟易しているというのが正直なところなのですが、筆をもって生きる者の端くれとして、遅まきながらではありますが、このテーマについて何が本質と考えるかについてまとめたいと思います。論壇に最も足りないのは、コンパッション(=共感)であると申し上げて筆をとる立場からすると、イデオロギー的な踏絵を突きつけられることにいやーな気分がするのですが、思い切って踏絵を踏まないといけない場合もあるのでしょう。
 さて、集団的自衛権論争が今日の泥仕合となってしまっている背景は、課題意識の異なる(ように見える)人々がそれぞれの立場から論陣を張っており、議論がかみ合っていないからです。そもそも、議論はかみ合っている方が建設的な結果につながるというのが私の考えですが、そのような考えは少数派なのかもしれません。議論をかみ合わせることが役割のはずの人々も、意図してか、意図せざる結果としてかはわかりませんが、泥仕合を盛り上げています。集団的自衛権をめぐる論争の本質を理解するには、大きく三つの領域で物事が進行しているという状況認識を持つことだと思っています。一点目は、安全保障の領域、二点目は憲法解釈と立憲主義の領域、三点目は感情的化学反応の領域です。本テーマについては、日本の論者はもちろんのこと、世界中で日本に関心のある論者が多くの論考を提示しているので、それぞれの領域の中ではいい議論もされています。少しずつご紹介もしながら私の考え方も開陳させて頂きます。

 

B.

 一点目の安全保障の領域から、よく整理された議論を展開しているものとして、田中均氏のダイヤモンド・オンラインの下記の記事があると思います。

 

まず集団的自衛権の行使容認ありきではあるまい。安全保障体制の強化のためになすべきことは?|田中均の「世界を見る眼」|ダイヤモンド・オンライン

 

C.

 田中氏の主張に窺えるように、安全保障政策として今の日本はどのような道をとるのかという議論が本丸であり、集団的自衛権行使容認をめぐる国内的議論は的を射ていないと言う認識には私も賛成です。ですが、安全保障観や時代認識については、プロ中のプロの見方をされる田中氏とは異なる見方をしております。

 これまでも申し上げてきたとおり、外交・安全保障の世界における現代という時代の特性は、安全保障や外交におけるプロの影響力が低下してきているということです。それは、米国では、政策の主導権が各地域の専門家からなる「帝国官僚」主導のものから、普通の民主主義国のそれへと変化していく過程であり、中国共産党ポピュリズム愛国主義を頼りに統治を正当化せざるを得ない状況であり、日本でも、霞ヶ関のエリートや自民党のボス達の影響力が低下するという形で進行しています。

 

D.

 日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 もちろん、そんなことは、日米安保条約のどこにも書いていませんし、戦後の「防衛と基地との交換」という伝統にも反する暴論であるというのは百も承知で申し上げています。

 ですから、日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはおっしゃらない。

 しかし、ワシントンのアマチュアだが本当の権力者たち、例えば、上院軍事委員会の面々の認識はここで申し上げていることと大差ないはずです。

 これまでは、米国の軍事力が圧倒的で、日本の集団的自衛権が実質的に役に立つとは誰も思っていなかった。せいぜい、お金の観点から少々貢献してくれという程度だった。けれども、軍事的に中国が台頭し、極東における米国との軍事バランスが崩れる可能性がリアルに想定されるようになって、この潜在的な矛盾が意識されつつあるということではないでしょうか。

 安全保障の観点の中でも、同盟を結ぶということにひきつけて言うと、集団的自衛権を行使できることは当たり前であり、「今までできないことになってたの!?」というぐらいの論点でしょう。

 

 上記は、氏の言う第1の領域の前半部分までを、省略なくコピーしたものです。 

  氏の議論を論理的に検討するために分割し、それら各部分にA,B,C,Dを付しました。原文ではそのような分割はなく、段落替えがあるだけでつながっています。

 Aは、イントロです。

 続いて、B,C,Dを普通に読んでいって疑問に思うのは、B,C,Dの3つの論理的連関は何だろうか?ということでしょう。

 しかしその疑問の解答を探す前に、三浦氏自身の主張は何なのか、ということを確認しておきましょう。そうしておくと、その疑問の解決も容易となるからです。

 三浦氏自身の主張がDにあることは明らかですが、再確認のために、氏のブローグの最後の部分を見ておきましょう。

 それは次のようになっています。

 

E.

 さて、集団的自衛権について様々な視点を紹介し、それぞれの視点の中での私の理解なり、意見なりを申し上げてきました。少し長くなってしまい、「で、けっきょくどうなのよ」と言われそうなので、まとめると、こういうことかなと思います。

 冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず、現代の東アジアにおいて日本に米国との同盟以外の選択肢があるようには思えず、かつ、現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上、集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

 

F.

 その上で、どのような場合に実際に武力を行使すべきかについては、今の国際社会のコンセンサスよりも相当保守的であるべきです。

 

  つまり、三浦氏自身の結論的な主張は、DとEでほぼ重なっています。

  Dの表現を用いて、端的に結論を述べれば、

結論(D表現):

米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

  Eの表現を用いれば、

結論(E表現):

(日本による)集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

となります。

 氏のそうした結論はどのような論拠に基づくのでしょうか?

 実は、氏の論は、次のような三段論法の組み合わせに拠っています。

 

<大命題>

すべての民主主義国間の同盟では、その一つの国が攻撃されれば、他の同盟国も、集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすのが当然である。 

<小命題>

日米同盟は、民主主義国間の同盟である。  

  従って、

<結論>

米国が攻撃されれば、日本も集団自衛権を発動して防衛義務を果たすのが当然である。

 

というわけです。

 しかし、大雑把にいって<小命題>は認めたとしても、<大命題>の方は認めるわけにはいきません。

 そもそも、この<大命題>がそのまま認められるならば、それに<小命題>を加えると、この<結論>が出てくるのは論理学的に当然なのですから、議論する必要など最初から全然ありません。

 また、そもそも「日米同盟」の基礎とされている日米安全保障条約には、「同盟」という言葉自体が出てきません。

 ですから、三浦氏のように「同盟」という概念を用い、それを日本にも適用しようとするならば、どのようなタイプの「同盟」か、それが日本の場合にも適用可能なものなのか、を明確にした上で用いなければ無意味です。

 例えば、北大西洋NATO)条約のような「同盟」と日米安全保障条約のような「同盟」では、集団自衛権については全く異なるもの性格の規定がなされています。

 北大西洋NATO)条約では、その前文において、 

締約国は、集団的防衛・・・の維持のためにその努⼒を結集する決意を有する。 

と述べ、第三条では、 

締約国は、武⼒攻撃に抵抗する個別的の及び集団的の能⼒を維持し発展させる。 

第五条では、 

締約国は、ヨーロッパ⼜は北アメリカにおける⼀⼜は⼆以上の締約国に対する武⼒攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすことに同意する。

したがつて、締約国は、そのような武⼒攻撃が⾏われたときは、・・・北⼤⻄洋地域の安全を回復し及び維持するためにその必要と認める⾏動(兵⼒の使⽤を含む。)を個別的に及び他の締約国と共同して直ちに執ることにより、その攻撃を受けた締約国を援助することに同意する。

 と述べています。これは、北大西洋NATO)条約が、相互に集団自衛権に基づく相互防衛義務を持つことを規定しています。

 ですから、北大西洋NATO)条約は、集団自衛権に基づく相互防衛義務を持つタイプの「同盟」ということができるでしょう。

 次に日米安全保障条約を見ましょう。当然のことながら、日米安全保障条約は、北大西洋NATO)条約を参照して作成されたと推定でき、その構成は似たものです。従ってまた、前者が後者と異なる時は、意識的に異なったものとして表現・規定が行なわれているとみて間違いないでしょう。

 日米安全保障条約の前文では、

両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、

とあります。

 ここで、「又は」であって「及び」でないのは、もちろん「両国」の内、日本には個別的自衛権しかない、という双方の政府の判断、大前提があった結果です。

 第三条では、

締約国は、個別的に及び相互に協力して、継続的かつ効果的な自助及び相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる。

  ここで「憲法上の規定に従うことを条件として」とあるのは、日本国憲法平和憲法が特別に念頭にあることは、北大西洋(NATO)条約にはそのような表現がないことから明らかです。

 また、第五条では、

各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。

 と規定しています。

 これも、北大西洋NATO)条約と大きく異なります。北大西洋NATO)条約では、締結国の一つへの攻撃がそのまま締結国すべてへの攻撃と見做され、それに対処する旨の規定がありましたが、日米安全保障条約では、日本又は在日米軍に対する攻撃が日米双方に対する攻撃と見做され、それに対処する旨の規定となっています。

 また、ここでも「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」ということが再度規定されています。

 この日本国憲法平和憲法への考慮は、「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃」といった表現の中にも見られます。つまり、私はわかりやすさのために、大雑把に「日本又は在日米軍に対する攻撃」と書きましたが、安全保障条約にある「日本国の施政の下にある領域における」という限定的表現は、両国政府が日本国憲法の制限を意識して、より限定的(専守防衛的)に対処行動の発動範囲を示したものということができるでしょう。

  要するに、三浦氏が前提としている<大命題>「すべての民主主義国間の同盟では、その一つの国が攻撃されれば、他の同盟国も、集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすのが当然である」は、成立する余地が全くありません。日本が明確にそうではないからです。 

 日本にはあてはめることのできない<大命題>を勝手に成立するものとして、それを日本にあてはめて、<結論>を導く(論拠立てる)という目茶苦茶をやっているわけですが、三浦氏自身は続いて次のように書いています。

もちろん、そんなことは、日米安保条約のどこにも書いていませんし、戦後の「防衛と基地との交換」という伝統にも反する暴論であるというのは百も承知で申し上げています。 

  つまり本人もこれが目茶苦茶、「暴論」であるということはわかっている、というのです。

 こういう議論の仕方を見ると、学会発表でも時々似たようなのがあるな、と思い出します。発表内容に致命的欠陥がある時に、もっともらしく議論した上で、他人にその欠陥を指摘される前に、「この議論はこういう欠陥を持っているが」と自分で言及しておくのです--こうすると何故か、この致命的欠陥がなくなるか薄まるような印象を与えることができます。

 もちろん、自分で言おうと他人に言われようとそれが致命的欠陥を持っていることには変わりなく、そんなものはアウトであって、学会発表してはいけないのです。

 三浦氏の自ら「暴論」という論法は上記のそれですが、ところが、もっと小細工がしてあって、「暴論」と名乗りつつ、「暴論」でないかの印象を与える工夫がところどころに見られます。

 氏は「日米安保条約のどこにも書いていません」という表現を用いていますが、どうでしょうか。私が上記の北大西洋NATO)条約と日米安全保障条約の条文検討で示したことは、実質的に考えるならば、「書いていません」と言うよりも、「日米安全保障条約は、日本の集団自衛権を積極的に否定している、その不在を前提に締結されている」と言うべきということです。「書いていません」ということによって、「暴論」性が薄まってしまいます。

  氏はまた、「戦後の『防衛と基地との交換』という伝統」というような表現を用いています。しかしこれもまた、日米安全保障条約上の明文規定があることを隠蔽して、それがあたかも単なる「伝統」、習慣のような印象を与えるものです。

 「暴論」と言いつつ、「暴論」を擁護するというのは、よくいえば「高踏戦術」、すぐれた「レトリック」ですが、私から見ると、あまりに読者をばかにした小細工としかいいようがありません。

 しかし実は、「暴論」を「当然」「当たり前」といった形で言い張るのは、単に度胸とか小細工とかだけでできることではありません。

 三浦氏は「暴論」と言いつつも実はそうは思っていず、根本において、それを本当に「当然」「当たり前」と信じているのです。

 そしてそれは、それが氏の個人的心情・信条であるというよりも、少なからぬ国際政治学者達の心情・信条(イデオロギー)を反映したものです。

 このことを、明らかにしたいと思いますが、長くなったので次回に続けます。