hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「気分はもう戦前?」--三浦瑠麗氏の議論批判VI--(続)権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属

 前回の続きです。

 

 今回は、三浦氏が「暴論」だと自認する主張・論理は、氏自身の心情・信条であり、それは多くの国際政治学者達の心情・信条(イデオロギー)を反映したものだ、ということを氏のブローグに沿って明らかにしていきます。

 私は氏の議論を、前回は三段論法として整理して、その最初の大命題(下記)が成立していないことを指摘しました。

   

<大命題>
すべての民主主義国間の同盟では、その一つの国が攻撃されれば、他の同盟国も、集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすのが当然である。

 

 「同盟」を規定し、具体化した日米安全保障条約北大西洋(NATO)条約を並べて、この大命題が、「暴論」であることを確認しました。

 しかし、読者はこれで三浦氏の議論の無茶苦茶さがわかったとしても、氏自身は「暴論」であることを自認して議論しているのですから、「暴論」性の確認だけでは、氏の議論に対する批判として、未だ致命打レベルに達していない、と言わなければなりません。

 つまり、前回私が行なったようなタイプの批判は、三浦氏流の国際政治学による「洗礼」を受けていない者にとっては、普通の、自然でかつ十分な批判です。しかし、三浦氏に言わせれば、自ら「暴論」と呼んだのは言葉の綾のようなものであって、むしろ、氏の主張の主要部分に関する自信を示すものと言うべきでしょう。

 では、そうした氏の自信はどこから来ているのでしょうか?

 それは、氏の「国際政治学的知見」から来ています。

 ですから、氏の議論を根本から批判するためには、氏の「国際政治学的知見」に焦点を当て、その正体を暴き出すという形で、批判がなされる必要があります。

 そのため、今回は、氏の「国際政治学的知見」の論理それ自体に内在する形で、氏の主張を「徹底的に理解すること」に努めることにします。そして、それによって氏の議論の本丸であるところの国際政治学的議論そのものを、根本から批判することにします。

 結論を先に述べておきますと、そうすることによって、氏の「国際政治学的的知見」の正体としての「権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属」が明らかになってくるでしょう。

 以下で、氏の「国際政治学的知見」の論理に則した内在的理解(分析)の作業を行ないます。

 前回引用した三浦氏のブローグのDとEを、次のように番号を付けて、もう一度以下に掲げます。

 

D-1 ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 D-2. もちろん、そんなことは、日米安保条約のどこにも書いていませんし、戦後の「防衛と基地との交換」という伝統にも反する暴論であるというのは百も承知で申し上げています。
D-3. ですから、日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはおっしゃらない。
D-4. しかし、ワシントンのアマチュアだが本当の権力者たち、例えば、上院軍事委員会の面々の認識はここで申し上げていることと大差ないはずです。
D-5. これまでは、米国の軍事力が圧倒的で、日本の集団的自衛権が実質的に役に立つとは誰も思っていなかった。せいぜい、お金の観点から少々貢献してくれという程度だった。けれども、軍事的に中国が台頭し、極東における米国との軍事バランスが崩れる可能性がリアルに想定されるようになって、この潜在的な矛盾が意識されつつあるということではないでしょうか。
D-6. 安全保障の観点の中でも、同盟を結ぶということにひきつけて言うと、集団的自衛権を行使できることは当たり前であり、「今までできないことになってたの!?」というぐらいの論点でしょう。

 

E-1. さて、集団的自衛権について様々な視点を紹介し、それぞれの視点の中での私の理解なり、意見なりを申し上げてきました。少し長くなってしまい、「で、けっきょくどうなのよ」と言われそうなので、まとめると、こういうことかなと思います。

E-2.  ①冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず、②現代の東アジアにおいて日本に米国との同盟以外の選択肢があるようには思えず、③かつ、現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上、④集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

 

F. その上で、どのような場合に実際に武力を行使すべきかについては、今の国際社会のコンセンサスよりも相当保守的であるべきです。

 

 

 今回は、三浦氏自身の論の運び方に則しながら、厳密に議論を進めます。

氏の議論の本質は、

   α.権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属

   β.憲法等の規範的なものへの蔑視

   γ.意志・責任を持った主体の消失

によって、特徴づけられます。

 αからβやγが出てくるの理の当然でしょう。

 また、氏の議論の方法における「小細工」的なテクニークとしては、

   i)「後出しジャンケン」的手法

   ii)曖昧表現

   iii)「逃げ道」用意

が、特徴的です。
 以下の議論で、これらの特徴が重なり合うようにして、浮き彫りになるはずです。

 まず、Dを見ましょう。

 D-1に、氏の、議論の枠組み、主張が集約されています。

 私はこれを何回読んでも、流れが悪く、スッキリとせず、奇妙な不快感が残ります。それは、内容に賛成できないからというのではなく、論理的に無理な文章表現、無理な文の接続構造になっていることから来ています。そして、こうした不快感の理由も、じっくりと分析しないとわからない、というところが、氏の文章が氏の文章たる所以です。

 私は「じっくりと分析しないとわからない」と言いましたが、一度ポイントを理解してしまえば、氏の「論理的に無理な文章表現、無理な文の接続構造」がどこにあるか、氏がそれを通じて何を意図しているのか--何を主張・印象操作・隠蔽しようとしているか--を、比較的容易に知ることができます。

 そのポイントとは、すでに上記で挙げた3つの内容的な特徴と3つのレトリック的な特徴のことです。

 しかし6つもポイントがあると手が付けられませんので、手始めの取っかかりとなる重要ポイントは、「 γ.意志・責任を持った主体の消失」の問題です。(なお γは、ギリシャ文字でガンマと読みます。私もこういう活字体は初めてだったもので、念のため。)

 「どこに、主体があるのだろうか?」というふうに問題を立てるのです。

 D-1は、同盟(の維持)といった問題を扱っています。そこでは、そうした同盟の締結・維持を選択・決定する主体がいうまでもなく重要です。

 そして、ここでは日米同盟に焦点が当てられているわけですから、「日本JAPAN」と「米国USA」が出てこなければなりません。この、「日本JAPAN」「米国USA」といった表現は、それらが責任を持って判断・選択する主体であることを強調したものです。

 またもう一つ忘れてはいけない主体があります。それは、「著者AUTHOR」ですが、ここでは、「三浦氏MIURA」となります。研究者の叙述は、専門的知見に基づいてなされますが、そこでは、様々なレベルでの著者による選択的判断が行なわれています。重要な点については、著者の選択的判断が行なわれていることが明確になるような書き方が要請されます。

 では、D-1の中に、これらの主体が出てくるのでしょうか?まずは、「日本」に注目しましょう。

D-1 ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本JAPAN集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。 

  ③の「日本」の箇所に、私がJAPANと加えたところだけが、主体としての日本です。

 しかしこの箇所は、同盟締結者としての「義務」を果たす主体として現れるのですから、その前に、同盟の締結・維持の主体としての日本が現れなければならないはずですが、それは見当たりません。

 ①の「日本」は、一見するとそうした主体のように見えますが、この箇所は、「日本」についての過去(今を含めこれまで)の事実を述べているにすぎないのです。

 私は、D-1を何度読んでもスッキリしないと言いましたが、では、これを次のように書き換えたらどうでしょうか。 

 D-1' ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、。そこで、日本JAPANが、今後も日米同盟を維持することを選択するとしましょう。その場合には、②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提ですので、つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本JAPAN集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 今度は流れがかなり良くなっているように思います。

  ①に対して赤字部分を付加すると、何故、D-1全体の流れが改善され、文意が明確となるのでしょうか?

 まず原文が、何故スッキリとしていなかったのか考えてみましょう。それは、黒字部分は、単に事実を述べているのであって、今後の選択(同盟を維持するか、しないか)というテーマについては、何も述べていなかったのに、②③では、それがテーマとなって話が進んでいるからです。

 ですから、赤字部分の付加によって、日本JAPANの選択についての仮定を明示化することは、論理的に重要、不可欠であり、これがあることによって、②③の内容がスムーズに理解できるようになるのです。

 したがって、仮に今、D-1全体の論理構成を保ちながら、①の文章を短くしなければならない、という要請があったとしても、その時省略されるべきは、黒字部分であって、赤字部分ではないのです。

 ところが、三浦氏は、黒字部分だけを提示しています。

 それは、何故でしょうか?

 まず、赤字部分が採用されない理由を考えてみましょう。 

 私は、ここで、主体を表す単語に英大文字を付加的に後置することによって、主体の存在の強調を試みましたが、三浦氏は、全く逆です。

 判断し、選択する主体が登場せざるを得ない時も、なるべく読者がその主体性の契機に気づかないように「隠す」工夫がなされるのです。

 ①の場合、赤字部分が明示的に記述されると、それが、日米同盟の維持を肯定するか否定するか、ここには主体的な選択の問題がある、ということを読者に意識される契機となってしまうので、それを避けようとしているのです。

 次に、黒字部分が採用された理由を考えてみましょう。上で述べたように、主体的選択の問題を隠すとしても、何も書かなければ、何が何だかわけのわからないものになります。何か、うまいやり方、レトリックを見つけなければなりません。そこで、この黒字部分の表現が採用されるのです。

 「日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟です」とだけ書いておけば、「根幹」を揺るがすようなことはあってはならないわけですから、読者心理を「自然と」--つまり、誰が主体として日米同盟の維持の選択をしているのかといったことを意識することないまま--同盟の維持という前提での議論に誘導することができます。

 今「誘導することができます」と書きましたが、でもやっぱり無理ですね。少なくとも私は、原文を何回読んでも、①から②③へと「自然な」つながりを持ってスッキリとした気分で進んでいくことは無理です。

 実は、ほとんど原文と同じで--つまり、基本、黒字部分のみの構成で--、①②③の流れをかなりスムーズなものに改善する修正方法があります。

 それは、次のようにすることです。

①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、 

 これは、まさに、三浦氏が本当は書きたかったことですが、だからこそ、また書けなかったことです。

 上記のように、たった一字を加えただけ(「今」を「今後」に換えただけ)で、もう一度D-1を読み直すと、ずいぶん流れが良くなっていますね。

 それは、「日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟です」は、単なる事実の記述ではなく、主体による選択を表すものであることが明確だからです。そうすれば、そこに「日米同盟を維持するためには」ということが、「自然と」含意されることになり、②③がスムーズに続いていくことになります。

 ところが、そのように「日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟です」と書いてしまうと、読者は、これが主体による未来へ向かっての選択であることを意識します。そして、これがまずは日本政府の政策的判断を表していることを意識するでしょうし、それに止まらず、さらに、これはあるいは、三浦氏の見解が書かれているのか、と三浦氏としては望まない意識を誘発する結果を招くことになります。

 そこで、無理があっても、原文のような書き方となるわけです。

 実を言うと、三浦氏自身の選択は、一番最後の氏の結論部分であるE-2に書いてあります。下記に、三浦氏の主体としての判断の存在を強調した、私による付加を与えて、再度引用します。

 

E-1. さて、集団的自衛権について様々な視点を紹介し、それぞれの視点の中での私の理解なり、意見なりを申し上げてきました。少し長くなってしまい、「で、けっきょくどうなのよ」と言われそうなので、まとめると、こういうことかなと思います。

E-2.  ①冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず、②私三浦MIURAには、現代の東アジアにおいて日本に米国との同盟以外の選択肢があるようには思えず、③かつ、現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上、④私三浦MIURAは、集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

 氏のこのブローグ記事(2014年06月15日)は、「最近、『で、三浦さんはどうなのよ』的なプレッシャーをいただくようになりました」といった調子で始まり、私が引用してこなかった部分(「安全保障の領域」の後半部、「憲法解釈と立憲主義の領域」「感情的化学反応の領域」)を含めるとかなりの長文です。

  最後の最後にやっと、3行(上記②)ほどで、ここでの核となっていたテーマである同盟の維持についての自身の選択--日米同盟維持--を、「他に選択肢がない」という形で、表明しています。

 そして、「他に選択肢がない」ことと、「相互の集団的自衛権行使」が「当たり前」に想定されている(上記③)ということから、半ば「自動的に」、三浦氏の結論「集団的自衛権の行使は当然可能」(上記④)が出されているのです。

 そして、この氏の意見を表明しているはずのこの最後の部分すら、私が書き加えた「私三浦MIURA」部分でなくて元のままであったなら、氏による主体としての判断であることが意識されにくいような表現が「工夫」されています。

 また、少し細かいですが、このE-2についても、私はそれを読んだ時、全体の流れに違和感を持ちました。

 それはどこの部分の何のせいだろうか最初はわからなかったのですが、以上のような分析をしてみて、原因がわかりました。

 それは、④の「当然可能と考えるべき」のところの「当然」と「べき」です。

 ④を次のように書き換えたらどうでしょうか。

私三浦MIURAは、集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべき他ないと思います。

 私は、すごく流れが自然になると感じます。

 何故なら、②では「選択肢がない」という、いわば消極的な理由が述べられていました。これが話の出発点である以上、全体の流れは、「これしかない」「しかたがない」という論調でなければならないからです。

 ところが、三浦氏は「当然可能と考えるべき」、と 何故か威勢がいいですね。

 一度、「選択肢がない」ということで読者を納得させたら、今度は「しかたがない」ので「いやいやなんだけど、そう考えることにする」というのではなく、「自覚を持って、当然の義務として、そう考えるべき」と言うわけです。

 上から目線なのか、自発的服従なのか、いずれにせよ、権力者にとって何と都合の良い議論をしてくれる「学者」なのでしょうか。

 けだし、D-1において、「日本JAPAN」がただ義務を遂行する主体としてのみ現れたのは、偶然ではないのです。

 ここで、「冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず」(上記①)というような言い訳めいたフレーズが置かれています。これは、日本JAPANとしても、あるいは三浦氏MIURAとしても、冷戦期であれば主体性を発揮できた、というのでしょうか?

 私は、このフレーズを含め、今まで分析してきた氏の工夫、レトリック全体に、いかにも三浦氏らしいもの(最初に述べた、i)「後出しジャンケン」的手法、ii)曖昧表現、iii)「逃げ道」用意)を感じますが、皆さんはいかがですか。

 こうした主体性の欠如は、「α.権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属」から来ていますし、また、それを維持・強化する役割を果たします。

 このことをより十分に議論するには、主体としての米国USAの問題が三浦氏の議論の中でどのように扱われているかを検討する必要があります。

 次回はそれを扱います。

 

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 ずっと間があいてしまいました。今後、少し短めで切れ切れになっても、あまり間をあけずに、続編をアップするようにします。

 

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 ところで、ツウィッターで、このような面白いのがありました。私には、同じことのように思えます。

 

  八幡愛‏ @aiainstein  10月24日

もしも三浦瑠麗氏がお天気お姉さんだったら、、、をシミュレーションしてみた。超絶イラついた

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