hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

ごまかし・騙しの雄弁術――「気分はもう戦前?」--三浦瑠麗氏の議論批判X--(続の5回目)権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属――

 ずっと気分転換の休養をさせていただいて、大きく間があいてしまいましたが、すべての反安倍ファシズムの人と連帯するこのブローグを再開します。

 

 もう、三浦瑠麗氏の議論批判が10回目になります。長くなり過ぎていますので、できる限り、要点をまとめるようにしていき、あと数回のうちにこの批判を一応完成させていきたいと思います。

 今、安倍ファシスト政権は、森友問題に関わる国家財産の私物化・国会での虚偽答弁・文書改ざん、という権力犯罪が露顕しつつあり、かつてなく窮地に陥っています。ところが、安倍首相は、3月25日の党大会で、改憲を前面に出した演説をしており、それにより、改憲問題に国民の注意を逸らしていくことと、改憲自体の実現の双方を狙っているようです。

 私は、森友用地問題に関する権力犯罪の追及をより強めていくことに、デモや言論の形で参加していくつもりですが、同時に、憲法問題を根本的なものとして議論していく必要を感じています。

 この意味で、今回は、三浦氏のブローグへの批判を、氏の憲法を扱った部分に焦点を当てて行なっていきたいと思います。

  私の三浦氏批判シリーズの目的は、まず、三浦氏の議論が、権力・軍事力崇拝および盲目的対米従属の立場・価値観の直接的な帰結であることを明らかにすることでした。

 しかし、そのような権力・軍事力崇拝および盲目的対米従属の立場・価値観は、三浦氏だけに特徴的というよりも、日本の国際政治学者の多くに共通するものと言えます。私が、三浦氏の議論を取り上げたのは、氏がマスメディアに露出して社会的影響力を発していることがありますが、同時に、多くのそうした国際政治学者の立場・価値観をわかりやすく率直に語り、またそれ故に、そうした立場・価値観に立つ論者達の「論拠」(の無さ)をまたわかりやすく示してくれるものでもあるからでした。つまり、私の批判は、安倍ファシズム政権と親和性を持ち事実上それを支えるような国際政治学者達の「理論」「知見」を批判するという作業の中に、このシリーズを位置づけて始めたのでした。

 こうした位置づけの妥当性を、この憲法論に焦点を当てた議論においても明らかにしていきたいと思います。

 私は、この三浦氏批判シリーズのV以降、三浦氏のブローグの一つの文章を取り上げてきました。氏はそのブローグの文章の最初の方で、集団安全保障の論争は、「一点目は、安全保障の領域、二点目は憲法解釈と立憲主義の領域、三点目は感情的化学反応の領域です。」というふうに述べていました。

 氏にとって、本質的重要性を持つのは、第1の「安全保障の領域」なので、私も、この第1の領域の議論を取り上げ、氏の主張を詳しく分析、批判してきました。まだその作業は完了していないのですが、少し急いで今回は、第2の「憲法解釈と立憲主義の領域」を扱いたいと思います。

 私は、氏の言論に即した形で批判の作業を行ないたいと考えますので、長くなりますが、まず、以下に氏による「憲法解釈と立憲主義の領域」に関わる議論を以下に引用します。

 

 二点目の憲法解釈と立憲主義の論点は、これまで積み上げられてきた立憲主義の枠組みをめぐる争いです。安倍政権が進めようとしている憲法解釈の変更については、安全保障上の必要性については言明せずに専ら手続論の観点からする批判と、安全保障上の必要性に対して法解釈の観点から反論する論理的には支離滅裂な、それでいて戦後日本の知的伝統からは正統な批判とがあります。

 

 一国の憲法秩序のあり方をどのように捉えるか、なかんずく憲法解釈を変更するということの意味については各国の立憲主義の根幹にある問題です。憲法学者があらゆる角度から論じてきたことですのであまり深入りはしませんが、そこには、成文規定の内容に関わらず、どのような政治的伝統の中に存在してきたかということが重要です。つまり、閣議決定でもって頻繁に憲法解釈を変えてきた国であれば、別に閣議決定で今一度解釈を変更してもさして問題なく、国民が気に入らなければ次の選挙でひっくり返せばいいわけです。それに対して、何十年にもわたって解釈を積み上げ、その解釈が社会的に重要であるというコンセンサスがある国においては、解釈変更という方法論は、まあ、スジは悪いわけです。ここで出てくるのが、「どうどうと憲法を改正すべき」という主張です。私がこの、もっともそうなこの主張になかなか与する気になれないのは、このような主張をされる方の本音が、立憲主義を方便とした現状維持であるのが見え見えだからです。加えて、このような主張には、立憲主義を方便とした日本の民主主義に対する軽視が潜んでいるように思えます。民主主義の仕組みの中で少数者の利益が害されないように最大限工夫してから立憲主義は持ち出されるべきものであって、国家観や安全保障観をめぐるイデオロギー的な争いの錦の御旗として使われるべきものでもないような気がします。

 

 安全保障の分野における戦後日本の立憲主義はとても不安定な礎の上に築かれてきました。中学生が普通に読めば、自衛隊の存在は違憲のように見えると思うのですが、それを精巧なガラス細工のような法解釈でもって正当化してきました。このガラス細工は、戦後日本をとりまく安全保障環境の現実と、日本国民を分断するイデオロギー対立の間に存在する矛盾とをぎりぎりのところで折り合わせるための「ごまかし」です。そして、このガラス細工は、時代を追うごとに、自衛隊の合憲性、非核三原則、武器輸出三原則、防衛費のGDP1%枠、PKO5原則、武力行使の一体化論などなど、その時々の政策課題と絡まりながら形成されてきました。そして、この日本人以外には殆ど理解できない精巧なガラス細工をめぐる争いに一生をささげてきた方がたくさんおられる。それは、ガラス細工を守り抜く側と、ガラス細工を粉砕する側の双方にとって日本の魂をめぐる闘いでした。私からすると、世代として理解できないところも多いのだけれど、左右両陣営にとって自らの自画像をめぐる真摯な争いであったことは理解できます。そんな中にあって、集団的自衛権をめぐる憲法解釈は、非核三原則とともに、最後まで残されたガラス細工を支える大きな支柱です。だからこそ、政策的な内実とは別の次元で、この支柱を壊したという象徴性と、この支柱を守ったという象徴性との間でのっぴきならない争いになってしまう。

 

 憲法を通じて政府を縛り、国民の権利を保障する立憲主義は、民主主義の擁護者であると同時に、時に民主主義と対立するものでもあります。日本国民は、安倍晋三という政治家を、彼の憲法観や安全保障観を十分認識しながら二度までも宰相として選択し、高い支持を与えています。安倍政権の支持率が高いのは経済改革に期待するからであるからとか、集団的自衛権をめぐる憲法解釈変更への支持率については(信頼性はともかく)いろいろな調査もありますし、様々な主張が可能でしょう。しかし、もう少し長い目でこれらの問題を見たならば、戦後作り上げられたガラス細工の支柱の多くは、安全保障環境の変化と国民の意識変化の前に、既に姿を消しました。おそらく、集団的自衛権の解釈変更は、日本の民主主義がたどり着きつつある、コンセンサスとはとてもいえない、けれども、不可避的な変化の方向性なのだと思います。

 

 現在行われている議論の多くは政策的な結論と言うより、政治的な結論をどこに落とすかいうことについての日本的なコンセンサス作りのように見えます。安倍政権が進める集団的自衛権の行使容認は、衆参両院における自民党の圧倒的勢力、そもそもの自民党内のイデオロギー分布の変化、維新・みんな等の野党勢力の賛成等から政策的には既定路線であり、安倍政権にどこまで勝ちを持たせるかをめぐる争いであるということです。政治的敗者(=少数者)にも一定の品位を保たせるというのは、日本政治の良き伝統の一つですが、ガラス細工を支えてきた方々も多いので、彼らを政治的に追いやり過ぎないようにするための工夫に知恵を絞る必要がある。与党協議の中でクローズアップされているグレーゾーンの議論は、スジが悪いし、あまり本質的でないのは皆わかっているのだけれど、ガラス細工の破壊者と擁護者が共に勝利宣言する必要があるという政治的立場に立つと、スジが悪いことにそもそもの付加価値があるとも言える。集団的自衛権憲法解釈というガラス細工を壊す代わりに、グレーゾーンという、新たな、少し小さめのガラス細工を作り出すことなのかと。ちょっとやり方が時代遅れな気もしますが、しょうがない感じもあり、日本的な共感の示し方でもあるのかと思います。

 

 氏は、「中学生が普通に読めば、自衛隊の存在は違憲のように見えると思うのですが、それを精巧なガラス細工のような法解釈でもって正当化してきました。このガラス細工は、戦後日本をとりまく安全保障環境の現実と、日本国民を分断するイデオロギー対立の間に存在する矛盾とをぎりぎりのところで折り合わせるための『ごまかし』です」と論じて、自らを、この「ごまかし」を正直に指摘する者という位置に置いて発言しています。

 しかし、私はまず、氏の議論自体が、「ごまかし」「騙し」に満ちたものだということを指摘せざるを得ません。氏は「ごまかし」「騙し」に満ちた自らの議論を進めるために、たいへんずさんな書きぶりを重ねています。私は今、「たいへんずさんな書きぶりを重ねている」と書きましたが、論の運びの論理性という意味ではそういえると思いますが、意図的な「ごまかし」「騙し」の方法が多用されているという意味では、「詐術的弁論術に満ちている」といっても良いと思います。

 そして、そのずさんな書きぶり、詐術的弁論を可能とするのが、氏が要所で利用する「学術的雰囲気を漂わせる」分析っぽい表現術であり、そして「縦横無尽」に用いられる「主語消失」話法です。

 氏によるこの第2の「憲法解釈と立憲主義の領域」の議論(文章)において、上で引用した「このガラス細工は、戦後日本をとりまく安全保障環境の現実と、日本国民を分断するイデオロギー対立の間に存在する矛盾とをぎりぎりのところで折り合わせるための『ごまかし』です」という部分は、重要なポイントとなっており、そしてそれは、読者に対して強い印象をもたらすための「断言」をなしています。

 「現実」「イデオロギー」「矛盾」といった言葉が、「論文」っぽい分析的な雰囲気をかもし出すと同時に、「ガラス細工」「分断」「ぎりぎりのところで折り合わせる」「ごまかし」といった効果的な――しかし意味内容があいまいな――「文学的」表現も併用されています。そして、この文の主語は、「ガラス細工」となっており、「ごまかし」をなす主体が誰なのか、何なのか、わからないようになっています。

 次回、この部分についてその内容に沿った形で詳しく批判を行なうつもりですが、まずここでは、この断言を基点とした詐術的な主張の内でも、最初に私がびっくりしたことから書いておきましょう。その方が、まず上で私が述べたことの要点を理解していただけると思います。

 私はしばしば指摘してきましたが、氏の文章は肝心なところで、主語(責任を持った主体)が消失するという特徴を持っています。氏は自衛隊を合憲とする法解釈を「ガラス細工」と評し、さらにそれを大上段から、「このガラス細工は、・・・『ごまかし』です」と断言しています。つまり、この文では、責任を持った主体としての人間や政治勢力が出てくる代わりに、「ガラス細工」が文章上の主語として採用されているのですが、これは、三浦氏に特徴的なテクニークで、これによって、氏は社会、歴史における主体を隠したまま、現れてくる社会的、歴史的な現象や結果を自らに都合よく扱うことが可能となるのです。

 氏のブローグの続きを見てみましょう。

 「そして、このガラス細工は、時代を追うごとに、①自衛隊の合憲性、②非核三原則、③武器輸出三原則、④防衛費のGDP1%枠、⑤PKO5原則、⑥武力行使の一体化論などなど、その時々の政策課題と絡まりながら形成されてきました。」

 主語は、「ガラス細工」で、「ガラス細工」は「形成されてきました」というように受け身形で表現されています。(氏はさらに、「⑦集団的自衛権をめぐる憲法解釈」を「ガラス細工」の要素として加えています。)

 では、これら①から⑦までの「その時々の政策課題と絡まりながら形成されてき」た「ガラス細工」(=「ごまかし」)を形成してきたのは、そもそも誰でしょうか。①から⑦までは、基本的に政府の政策を支える憲法解釈や基本原則なのですから、それら(「ガラス細工」の諸要素)を形成してきた主体が政府(自民党やその前身である自由党等の保守政党)であることは明らかです。

 氏の「ガラス細工」(=「ごまかし」)という表現を踏襲するならば、国民をごまかすために「ガラス細工」を作ってきたのは、「政府」です。

 ところが、三浦氏は真逆の議論を展開しています。氏によると、「ガラス細工を守り抜く側」と「ガラス細工を粉砕する側」が争っているというのですが、前者が「左陣営」であり、後者が「右陣営」とされています。通常の論理展開ならば、「ごまかし」をなした者が「ごまかし」を「守り抜く」側になり、それを批判する側が「ごまかし」を粉砕する者になるはずです。つまり、氏は「ガラス細工」を「ごまかし」であると批判していたのですが、いつの間にか、「ガラス細工を守り抜く側」、つまり「ごまかし」を擁護とされるのが左陣営であり、「ガラス細工を粉砕する側」、つまり「ごまかし」を正すのが右陣営ということにされています。これだけ堂々と真逆のことを主張されると、何か読んでいる方がどこかで勘違いでもしているような錯覚にとらわれます。

 詐欺を働こうとする人々は、「まさかここで嘘はつくまい」「まさかこうは堂々と真逆のことは言えないだろう」という普通の人の虚を突くことを得意とするものですが、三浦氏の論建ては、そのような詐術的弁論としか言いようがありません。

 どのようにして、このような詐術的弁論を氏は可能なものとしているのでしょうか。それは、(1)まず、氏の得意技である「社会や歴史における実質的な主体・責任を持った主体隠し」によって、氏がいうところの「ガラス細工」(=「ごまかし」)の形成者たる政府の存在を隠す、 (2)その上で、自分の論に好都合なように今度は、左翼は「ガラス細工」(=「ごまかし」)の擁護者、右翼は「ガラス細工」の粉砕者であるとレッテルを貼りながら主体認定がなされるのです。

 氏の詐術的弁論性は、このような真逆のレッテル貼りを堂々とするということだけに止まっているものではありません。氏は、「ガラス細工」という表現を持ち込むことによって、①から⑦までのテーマ(政治・政策の原則や憲法解釈)が「ガラス細工」の様なものであって、現実政治においては、考慮や議論に値しないもの(政治の現実に影響を与えないもの)であるかの印象を与えています。

 氏の口調が常に「おバカさんのあなた達に教えてあげる」というものであることは知られていますが、ここでも、「この日本人以外には殆ど理解できない精巧なガラス細工をめぐる争いに一生をささげてきた方がたくさんおられる」と敬語を用いながら、「(おろかにも)一生をささげてきた方(おバカさん)」「(おろかにも)真摯な争い」をしてきた人々(おバカさん)が隠然と嘲笑の対象とされています。そして、この「ガラス細工」をめぐる議論が、「日本の魂」「自画像」「象徴性」をめぐる左右政治勢力の争いであり、「政策的な内実とは別の次元」--ここらへんも何か「論文」ぽい分析のような響きがしてきますね--にあるもの、と説いてくれるのです。

 しかし、言うまでもなく、①から⑦までのテーマ(政策・政治原則やそれらと密接に関わる憲法解釈)は、政策的な内実に密接につながる議論であり、従って当然政策的な内実に重要な影響を及ぼすものです。氏は、こんな単純明快な事実を、「ガラス細工」という言葉を主語として(詐術的に)用いることや「政策的な内実とは別の次元」といったもっともらしく聞こえる、しかしずさんな論の運びによって、読者から隠してしまうのです。

 さらに、氏の詐術的な議論の特徴は、「自分はお利口さんなので、お馬鹿な左右のイデオロギー対立の上にいる」というポーズをとることによって、読者に対し、氏が自らを第三者、中立者のような位置にある印象を与えること、そしてそうしながら、実際には、右翼イデオロギーや右翼の主張する政策を強力に支援・促進する役割を果たしていることです。

 氏は、「集団的自衛権をめぐる憲法解釈は、非核三原則とともに、最後まで残されたガラス細工を支える大きな支柱です。だからこそ、政策的な内実とは別の次元で、この支柱を壊したという象徴性と、この支柱を守ったという象徴性との間でのっぴきならない争いになってしまう」と言って、この問題を「政策の内実と別次元のもの」としている--つまり、氏の高みから見るならば、「のっぴきならない」というようなものではない、そのような実質性を持つ議論ではない、と隠然と述べている--ので、これだけだと氏は第三者のような印象を与えます。しかし実際は、全く違います。

 これまでの私の三浦氏の議論の批判シリーズで見てきたように、氏は、「集団自衛権は認めるべき」といい「日本も核武装すべき」と論じています。つまり、安倍政権やいわゆる自民党タカ派と同様の主張をしています。

 また、この物言いは、氏の立場が、①および③から⑥まではもう論ずる必要もなくなったことして認識しており、そうした状況を歓迎する(「ガラス細工」が崩れ去ってけっこうなことだという)ものであることを示しています。しかし、そうした状況は、政府による強行的な決定や政府の政策による「ごまかし」的な現実の持続によってもたれされてきたものであることを見ようとせず、またそのことを読者にも見させないようにしているのです。

 つまり、第三者のふりをしながら、第三者どころか、安倍政権に示される極右的な政策を支え、促進する好都合な支持者の役割を果たそうとしています。

 私は、同様に、日本人の学者があたかも客観性(独立性)を持って米国の主張を支持してくれるならば、米国のいうことごもっとも、という姿勢を丸出しにした人物よりも米国にとって好都合であることを、三浦氏の例に即して述べたことがあります。

 三浦氏の詐術の中に一貫している論理は、権力・軍事力崇拝と対米従属によって方向づけられたものです。このことを理解しておくと、氏の詐術にとらわれることなく、しかも、氏の主張の本質(=権力・軍事力崇拝と対米従属という筋だけがあり、従ってまた、オリジナリティや分析的な価値がないこと)を把握することができると思います。

 私は、次回に、①から⑦までがどのような性質を持つものなのか、私自身の考えも示しながら、先程取り上げた「このガラス細工は、・・・『ごまかし』です」という氏の議論(詐術)を、批判的に詳しく論じていくつもりです。

 ただ今回、ここで議論を中断することによって生じかねない誤解を防ぐために、少し付け加えておくことがあります。私は、先に「真逆」という表現を用いつつ、政府こそが①(「ガラス細工」)を作り出し、「ごまかし」をなす主体である、というような言い方をしました。しかしそれは、三浦氏の言葉づかいである「ガラス細工」や「ごまかし」というようなものを踏襲するのであれば、という条件での話です。私はそのような言葉づかい自体を、①から⑦の持つ社会科学的な意味、性質をとらえる上ではふさわしいものとは考えません。このことは、次回の議論で明らかにしていくつもりです。