hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「気分はもう戦前?」--三浦瑠麗氏の議論批判VII--(続・続)権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属

 前回、私は、三浦氏の確信犯的な「暴論」を、氏の「国際政治学的知見」に焦点を当てて批判する必要を述べ、そして氏の「国際政治学的知見」の内、まず、日本JAPANという主体の判断・選択の問題に関して検討を行ないました。

 そこで明らかになったことは、読者に意識する契機をなるべく与えないようにしながら、最後の最後に「日本JAPANには他に選択肢がない」という三浦氏MIURAの判断・選択--つまり、氏の「国際政治学的知見」--を、ぽそっと入れ込んで、「集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います」という結論を出している、ということでした。

 今回は、氏の「国際政治学的知見」の、「米国USA」の態度・主張に関する問題を扱います。そして、氏の度し難い「権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属」を明らかにしたいと思います。 

  読者の便宜のため、また三浦氏のブローグ記事(2014年06月15日)からの引用を再度コピぺしておきます。

D-1 ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 D-2. もちろん、そんなことは、日米安保条約のどこにも書いていませんし、戦後の「防衛と基地との交換」という伝統にも反する暴論であるというのは百も承知で申し上げています。
D-3. ですから、日米同盟に長い間かかわってきた日米双方のプロに聞いても正面きってはおっしゃらない。
D-4. しかし、ワシントンのアマチュアだが本当の権力者たち、例えば、上院軍事委員会の面々の認識はここで申し上げていることと大差ないはずです。
D-5. これまでは、米国の軍事力が圧倒的で、日本の集団的自衛権が実質的に役に立つとは誰も思っていなかった。せいぜい、お金の観点から少々貢献してくれという程度だった。けれども、軍事的に中国が台頭し、極東における米国との軍事バランスが崩れる可能性がリアルに想定されるようになって、この潜在的な矛盾が意識されつつあるということではないでしょうか。
D-6. 安全保障の観点の中でも、同盟を結ぶということにひきつけて言うと、集団的自衛権を行使できることは当たり前であり、「今までできないことになってたの!?」というぐらいの論点でしょう。

 

E-1. さて、集団的自衛権について様々な視点を紹介し、それぞれの視点の中での私の理解なり、意見なりを申し上げてきました。少し長くなってしまい、「で、けっきょくどうなのよ」と言われそうなので、まとめると、こういうことかなと思います。

E-2.  ①冷戦中の非同盟諸国的な立場ならいざ知らず、②現代の東アジアにおいて日本に米国との同盟以外の選択肢があるようには思えず、③かつ、現代の民主主義国間の同盟が(レベル感はともかく)、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している以上、④集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います。

 

F. その上で、どのような場合に実際に武力を行使すべきかについては、今の国際社会のコンセンサスよりも相当保守的であるべきです。

  三浦氏の「米国USA」の態度・主張についての「国際政治学的知見」は、上記D-4からD-6まで、「ワシントンの本当の権力者たち(例えば、上院軍事委員会の面々)の認識」についての、氏による推察、という形で与えられています。

 この氏の推察によれば、要するに、「米国USA」にとっては、日本が集団自衛権・米国防衛義務を持つのは、改めて考えたり、議論するまでもなく、「当然」「当たり前」である、とされています。

 氏がこのような推察を行なうのであれば、結論E-2の④において、「④集団的自衛権の行使は当然可能と考えるべきと思います」というのは、理路整然とした、まことに単純明快で納得のいく論理的帰結とも言えます。

 何故なら、日本JAPANには、「同盟維持以外の選択肢はない」(E-2の②)のですから、相手国が「当然」「当たり前」というような条件は、すべて受け入れる以外ないということになるからです。

 ところが、三浦氏の「国際政治学理論」は、そんな単純明快、「低級な」ものではありません。

 では、どんなものと形容できるか?と聞かれると困るのですが--正直言って、「低級」ではないからと言って「高級」とも言えず、私には「得体の知れない」「鵺的」とでもいう他ない・・・--、ともかくこれを、「三浦<当然>理論」と名付けて、具体的にそれを見ていきましょう。

 まず、この「三浦<当然>理論」はどこにあるのでしょうか?

 不思議なことに、これもまた、はっきりと存在するのに、なるべく見えないようになっているのです。

 「三浦<当然>理論」とは、一番わかりやすい形では、結論部E-2の③にある次の「理論」です。

「三浦<当然>理論」(定式化E

 現代の民主主義国間の同盟は、「当たり前」に相互の集団的自衛権行使を想定している

  この「理論」は、かなりわかりにくい形でですが、実は、Dの最初(D-1の②③)に、次のように出てきます。

「三浦<当然>理論」(定式化D)

 ②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 定式化Eと定式化Dは、同じものを定式化しているのですが、後者の定式化は、理論の提示としては、非常にまずいもので、読者を混乱させます。そこで、さしあたって、③の部分を次のように修正したものを、「定式化D'」とします。

 「定式化D'」は、②の部分の「理論」としての一般性を、③'の部分でも明示的に保持するように修正したものです。  

「三浦<当然>理論」(定式化D')

 ②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提です。③'つまり、ある同盟国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に他の同盟国が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。{③つまり、日米同盟にこの「理論」を適用しますと、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。}

 このような修正を施しても、なお、③'の「つまり」には、定式化としては、好ましくない曖昧性が残っています。この問題は、後で議論します。しかし、さしあたって定式化Eと定式化D'は、同じものを定式化したもの(従って、同じもの)と理解してください。 

 そして確認しておきたいのは、この「三浦<当然>理論」は、単なる客観的な事実・現象、その性質のまとめに止まるものではなく、三浦氏自身がそれを国際的な標準として、これまた「当然」のもの、積極的に従うべきものとしていることです。

 このことは、E-2の③④をじっくり読むと確認できます。

 さて、本来、原文D-1の部分は、三浦氏自身の主張をまとめる形で、最初に提示した重要な箇所なので、明快なものであるべきです。

 ところが、この部分の文の流れは不自然で、内容は不明確で、そこでは、判断・選択の主体としての「日本JAPAN」「米国USA」および「三浦氏MIURA」が消失・隠蔽されていました(あるいは不在でした)。

 前回は、主体としての「日本JAPAN」を明示的に加える修正(以下のD-1')を提示、これによって文意がかなり明確化されることを示しました。 

 D-1' ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、。そこで、日本JAPANが、今後も日米同盟を維持することを選択するとしましょう。その場合には、②今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提ですので、つまり、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本JAPAN集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 これで改善されたとはいえ、未だ、流れの不自然さはかなり残っていますね。

 今回は、さらに、主体としての「三浦氏MIURA」による「三浦<当然>理論」(定式化D')を明示的に加える修正を行なってみましょう。 

 D-1' ①日本の安全保障の根幹は昔も今も日米同盟ですが、。そこで、日本JAPANが、今後も日米同盟を維持することを選択するとしましょう。その場合には、「私氏MIURA」によって「三浦<当然>理論」としてまとめられた国際標準に従わなければなりません。この国際標準とは、今の時代に民主主義国が同盟を維持するということは、相互主義と相互利益が暗黙の、当然の前提であるということです。③'この国際標準では、ある同盟国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に他の同盟国が集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。つまりので、「三浦<当然>理論」の国際標準を日米同盟に適用しますと、米国が攻撃された(あるいはされそうな)場合に日本JAPAN集団的自衛権を発動して防衛義務を果たすことも、「当たり前」ということになります。

 私としては、隠蔽された主体を明確にしながら、氏の原文の論理を忠実に再現したつもりです。

 どうでしょうか?

 どこかに、私による氏の真意をねじ曲げたところがありますか?

 明確さを求めたためのくどい感じがあると思いますが、論理的には氏に忠実でありながら、原文と打って変わって、非常に明快、その意味で文の流れも非常に良くなったのではないでしょうか?

 何故、三浦氏がこのような明確な書き方をしないのか、ということの議論は後で行なうこととして、まずは、氏の議論の論理構造を批判的に分析する作業を続けていくことにします。

 ここで不思議なのは、三浦氏自身の主張をまとめる形で、提示されたD-1の部分には、主体としての米国、つまり「米国USA」が現れてこないことです。

 この氏によるブローグ記事の核にあるのは、集団自衛権論議に関わっての日米同盟のあり方というテーマのはずです。ところが、D-1にせよ、E-2にせよ、「日本JAPAN」が「他に選択肢がない」という理由によって「同盟維持」を決めた後は、「三浦<当然>理論」という一般理論が「主体的な役割」を果たします。

 この「理論」を日米同盟に適用すれば、「自動的」に日本の集団自衛権・米国防衛義務が導かれるのです。つまり、この限りでは、固有の主体としての「米国USA」は固有の意味を持っているのではなく、一般的な理論の適用可能な範囲にあるところの一例にすぎないものです。

  「何だ、三浦氏の議論を『対米従属』とか決めつけたのに、氏の議論には、主体として『米国USA』は現れず、あるいはせいぜい、一例扱いなのか。お前の分析、おかしいんじゃないか」と言われるかもしれません。

 いや、そうではありません。まさにこれが、氏の対米従属「学者」としての真骨頂なのです。

 「米国USA」の主張を、ただ繰り返すような代弁者、スポークスマンは、日本の中にすでにいっぱいいますので、そのような代弁者・スポークスマンに止まるような人は、米国から見ての利用可能人物としては「低級」扱いを受けても仕方がないでしょう。

 それに対して、日本の高名な大学の日本人研究者が、「主体的」に、客観的・学問的真実、研究成果として、米国の主張を「当たり前」のこと、積極的に従うべき国際標準に沿うものとして、「支持」してくれるならば、米国にとってこれ以上の存在はないでしょう。

 三浦氏の「三浦<当然>理論」は、米国の主張を、「学問的」に正当化(justification)し、合理化(rationalization)する役割を、「主体的」に果たしています。

 先に、「米国USA」の態度・主張についての三浦氏の「国際政治学的知見」が、上記D-4からD-6までに書かれていることを述べました。

 「三浦<当然>理論」は、明らかに、そこで書かれている「米国USA」の態度・主張を、正当化・合理化する役割を果たすものです。

 ところがまた、ここでまた不思議で、わかりにくいことにぶつかります。

 原文をすなおに読んでいくと、「米国USA」の態度・主張に関わる記述は、「三浦<当然>理論」を支える役割を果たしている印象を受けることです。

 つまり、「三浦<当然>理論」が「米国USA」の態度・主張の主張を支える(正当化・合理化)するのではなく、その逆となっている印象を受けることです。

 これはどういうことなのでしょうか?

 そもそも、「三浦<当然>理論」は「正しい」のでしょうか?どのような根拠を持っているのでしょうか?

 **************

 次回に続きます。

 冒頭で、「氏の度し難い『権力・軍事力崇拝と盲目的対米従属』を明らかにしたいと思います」と書きましたが、それは次回のことになります。 

 また間があいてしまいましたが、こまめに更新するように努力します。