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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

安倍ファシズム政権をファシズム政権として認識することの重要性と、ファシズム政権にとっての「対米従属」の効用

 最近、危機意識を表明する人々が急速に増え、またマスコミにも取り上げられるようになってきていると感じます。でも、まだまだ甘い、と私は思います。

 昨日は、私の危機意識を書きました。おそらく、中国との戦争に至るという私の説明は、根拠が薄い、という人が多いでしょう。

 私と楽観的な人との違いは、安倍政権ファシズム政権である、という認識を持っているかどうか、ということが決定的です。

 平然と「戦争」を「平和」と言い換える二重言話法を採用すること、堂々と集団自衛権とは無関係な砂川裁判判決をその根拠として宣伝すること、これらはヒトラーの採用した大衆のみをその対象として念頭においた行動・宣伝方法そのものです。

 それらの内容についての理性的な批判は、もちろん重要でしなければなりませんが、それだけでは、ファシズムと対抗することはできません。ファシズムの側は、嘘をいかに大衆に対し効果的に広げるかを自覚的、計画的に行なっているのであり、内容的な批判があること、そのような批判が正しいことは、知っていての行動だからです。

 では、どうしたらいいでしょうか。

 私の結論は、選挙を通じて、反ファシズム統一戦線候補を当選させ、ファシズム党派の候補を落選させることである、というものです。このことは、これまでも繰り返し言ってきました。これからも繰り返します。

 しかし、その前に重要なことは、目の前にあるファシズム政権をファシズム政権として認識することです。そのことをあいまいにしては、確信を持って行動することはできません。

 安倍ファシズム政権の目的は、日本を「普通の国」にすることではありません。その目的は、強い軍隊と天皇を頂点とした集権的な体制を形成し、国際社会の中で、日本国家を強大なものとして、高い位置に置くことです。その世界観(国際社会観)は、基本的に戦前の大日本帝国の国家観と変わっていません。

 対米従属も、この目的のための手段です。この手段は、この目的のために好都合な面をいくつも持っています。

 第1に、国内では、大資本と官僚という対米従属グループを協力者とすることができます。

 第2に、対米従属という手段は、大日本帝国への回帰という目的と矛盾しているようですが、現実の軍事力回復、構築という点で非常に強力なものとなっています。特に、限定的な軍事力にせよ、世界中で軍隊を展開するということを堂々と現実的に用意するということは、対米従属という名目の下でしか、実現できることではなかったでしょう。 

 第3に、対外的にも対内的にも、戦前回帰、「八紘一宇」の野心を、「国際協力」「アメリカとの協力(対米従属)」「普通の国」といった別の看板でだましたり、正当化することが容易となることです。このことを安倍政権は、フルに利用しています。

 例えば、憲法学の長谷部氏が秘密保護法制定を推進し安部政権に協力したのは、似たような法律がアメリカ、その他にもあることという意味で、「普通の国」になる、という発想があったのでしょう。しかし、現在の戦争法案を見て、それを強く批判しているのは、ただ法律の内容的な違いということではなく、安倍政権の野望、そのファシズム的性格に遅ればせながら、気づいたということだと思います。

 第3に述べた「『戦前回帰』を対米従属によって正当化する」という観点から言って、戦争法案に関連して、見逃せない点を指摘しておきます。

 自衛隊法改正案には次のような箇所があります。

(防衛出動)

七六条一項 首相は次に掲げる事態に際し、わが国を防衛するため必要がある場合、自衛隊の出動を命ずることができる。  

一 わが国への外部からの武力攻撃が発生した事態、武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められる事態。   

二 わが国と密接な関係にある他国への武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態。

 

 

 二の「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」の場合に、自衛隊が出動するという部分は、集団自衛権の発動を制限する文言として入れられたことになっています。

 一般に行なわれているこの改正への批判は、この「明白な危険」の判断が、政府に任されていること、事実上集団自衛権発動を制限できないことに集中しています。もちろん、その批判はその通りです。

 しかし私は、この文言は、ファシズム的な戦争理由の正当化にも用いられるものだ、ということを指摘したいと思います。

 「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」には、すでに経済的な理由の場合も入ること、地域的な限定もないことが説明されています。

 これは、戦前の日本の開戦理由そのままです。こんな議論は、対米従属を前提としていなければ、対外的にも対内的にも議論すること自体が強い批判を浴びるもの、不可能に近かったことでしょう。対米従属を前提とした「集団自衛権」に関わるものとして、初めて可能となった文言です。

 しかし、これは武力攻撃の有無やどの国からどの国への攻撃かとは関わりなく、一般論として、わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」を判断し得る能力を政府が持つということが前提となった文言といえます。

 仮に、武力攻撃が全くない場合、あるいは武力攻撃があったけれど、わが国と密接な関係を持たない国への攻撃であった場合を考えましょう。それでも、政府が「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があると判断することはあり得るわけです。

 この場合、この改正案は、自衛隊の出動を禁じているでしょうか。私はオーソドックスな法解釈では、禁じている、というと思います。

 上記法案の一の部分で述べられている部分は、個別自衛権に対応する部分であり、それは、「わが国への外部からの武力攻撃が発生した事態、武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められる事態」と述べており、これに拘束されるからです。

 明らかに文言上は、個別自衛権の発動は、集団自衛権発動の場合より、はるかに厳しい条件でのみ発動されることになります。

 しかし、一部の法学者の解釈あるいは実際の法の運用としては、緩やかな集団自衛権発動の条件を採用することになると思います。何故なら、集団自衛権がこのような条件で発動できるということは、一般論として、政府がわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」についての判断力を持つことを前提にしているからです。

 「常識的」に考えて、政府がわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」な状態にあると判断しながらも、「わが国への外部からの武力攻撃が発生した事態、武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められる事態」発生まで、自衛隊の出動を行なわないとするならば、政府は無責任だ、ということにならないでしょうか。

 「常識的」に考えて、他人のためにはより緩やかな条件で軍隊を出すが、自分の時は、なかなか軍隊を出さないのはおかしい、という議論にならないでしょうか。

 政府や一部の御用法律家は、政府がわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」と判断したならば、「法理としてに当然に」個別自衛権の場合も、自衛隊を出動できる、と主張することになるだろうと私は考えています。

 ここで見た自衛隊法の問題は、対米従属の衣が、ファシストの意図を実現するために利用されていく、そうしたあり方を示す重要な例といえるものです。