hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

国民に問う、「南スーダンへの駆けつけ警護の自衛隊派遣をどう思う?」

 先日(9月19日)総がかり実行委員会の戦争法採決強行一周年の国会前集会に参加してきました。

 前から思っていたことですが、その時の報告を聞いて改めて考えたことを、総がかり実行委員会へメールしました。

 それを以下に掲げます。

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拝啓 総がかり実行委員会様

 昨年の戦争法反対運動に続く活動に敬意を表します。

 9月19日(月)、戦争法採決強行一周年の国会前の集会にも参加させていただき、自衛隊南スーダンへの駆けつけ警護のもたらす隊員への深刻な危険について、報告者皆様のお話を伺い、改めて危機感を覚えています。

 新聞報道では、すでに自衛隊では、そのための訓練を始めているようです。

 このまま派遣が進み、その結果、死傷者が出てからメディアが大報道しても、多くの方が危惧されているように、それは、戦争法を廃止する方向ではなく、それを強化する方向へと利用される可能性が高いと思います。

 この自衛隊派遣を止めるにはどうしたらいいか、集会当日、総がかり実行委員会からも、いくつか行動提起がありました。

 私は、国会前の集会や青森県自衛隊部隊の派遣反対の現地闘争も重要だと思います。

 しかし同時に、ここまで事態が来ている以上、本当に派遣をストップするには、政府や国会や、あるいは自衛隊組織(幹部)に焦点を当てた闘争ではなく、文字通り、国民の意識、責任を問う運動をおこない、国民にはっきりと反対の意志を固めてもらい、それを「見える化」する他ないし、そうした運動のやり方が、有効だと考えます。

 「南スーダンへの駆けつけ警護の自衛隊派遣をどう思う?」--具体的には、国会前集会よりも、こういうビラの配布を多くの場所で、繰り返し行なうことに重点をおきます。発想として、今までは国会や政府の責任を問う活動でしたが、今回は国民の責任を明らかにしよう、という活動です。新聞でも広告を出したらいいと思いますが、それはいわゆる「意見」広告として私達の「意見」を言うという発想ではなく、「国民としての責任を問う」という発想に基づいて、文言をつくります。

 私は、実際に国民の責任は大きいと思います。戦争法は成立し、参議院選でも与党勢力が勝利した以上、国民が駆けつけ警護についても明確な反対を示さない限り、政府はそれを実行するでしょう。

 しかしもし、事前の世論調査で、6割、7割の国民が駆けつけ警護に反対であれば、政府が強行することは、去年の戦争法成立の強行よりも難しいのではないでしょうか。国民が反対の意思を示せば、止められるのです。

 私は、共同通信世論調査等で、自衛隊駆けつけ警護についての質問項目が今後上がってくるのか、疑問に思っています。すでに、そういう項目を入れないように、政府は手を打っているのではないでしょうか。そして、「最終判断は、政府の責任で」といって、政治問題化させないまま、実行しようと考えていると思います。

 そうした策謀に対しても、「国民の責任を問う」ビラ配布は考慮に値するのではないでしょうか。

 そうした一斉ビラ配布活動が実施されるとなれば、もちろん私もぜひ参加したいと思います。

 

              2016年9月24日

                     米村明夫

 

私立通信制高校--新自由主義と様々な日常

 学会発表の準備があって、少しブローグを休んでいました。

 学会で、知らなかった情報を得たので、関心を持つ人と共有するため、前回までのシリーズを今回は中断し、そのことを書きます。データは、酒井朗氏と内田康弘氏、それからWikiの「高等学校通信教育」の項目からです。このWikiの情報は、注もしっかりついていて、参考文献にアクセスしやすく、役立ちます。

 小泉政権の下で進められた新自由主義的政策は、教育の分野でも深刻な破壊をもたらしています。2003年に、構造改革特別区域法により、株式会社が学校を運営できるようにしました。その結果、2004年頃から通信制私立高校生の数が、急速に増大しました。

 その数は、2000年の7万4023人から2015年の11万3691人となっています。全高校生数の中での割合でいうと、2%から3%への増大です。人数でいうとかなりですが、割合にすると小さいので、この急速な増大があっても、話題になりにくく、その存在や傾向に気づきにくいでしょう。

 さらに、私立通信制高校は、サポート校と呼ばれる学校(これは法的には、学校教育法第1条に定められた学校とは別で、例えば、「先生」は教員免許を持ちません)と提携的な関係にあるがあることが多いようです。

 内田氏調査による48校のサポート校の年間授業料データによると、過半数が50万円から120万円の間にあります。このデータには、提携校(高校卒業資格を出す私立通信制高校)の授業料が含まれている場合と含まれていない場合があります。私立通信制高校の授業料とサポート校の授業料を合わせると、普通の私立高校よりも、20万円ほど高いそうです(私の聞き間違え、覚え違いがあるかもしれません。すべての数値の間違いは私の責任に帰します)。

 通信制の教育が主である学校の授業料としては、非常に高いと思います。

 他方、教育の中身はどうでしょうか。Wikiには、次のような記述があります。

 一部の広域通信制高校(学校所在以外の都道府県の生徒を受け入れる)において、サポート校に教育などのあらゆる業務を丸投げしているといった不適切な実態が指摘されている。
 構造改革特区法に基づく株式会社立の通信制高校の7割が、同法の禁ずる特区外での教育活動をしていた。文部科学省の担当者は、「脱法行為であるうえに教育の質も低く、高卒資格を売り物にしたビジネスになっている」と述べている(朝日新聞』 2012年8月19日付)。 

 現在の日本では、高校卒業資格は必須です。高校を途中退学してしまった生徒本人やその親は、必死になって、それを得る方法を求めます。そういう弱みにつけこむ商売--私は貧困ビジネスを連想しました--が「合法化」され、広がっている、というのが趨勢であると推定できます。 

 金儲けのチャンスを見いだした資本が、敏感に対応しているのでしょう。教育のために資本が用いられるのではなく、教育のための枠組みを破壊することによって、資本が「活き活き」とするのです。

 どのくらいの学校が、上記の引用で指摘されているような問題のある学校なのでしょうか?

 株式会社による運営は、2012年に20校でした(私の見ているデータでは、株式会社の下での生徒数はわかりません)。そうした組織が教育に参入した目的、動機が、利潤獲得にあることは当然ですから、上記のような問題と結びつきがちなことは容易に想像できます。

 学校数でいうと、株式会社と学校法人の全体を合わせた私立通信制高校全体の数は、2000年に44校であったものが、2012年には140校に増えています。普通の通信制でない学校ならば、学校施設や先生の雇用等、からいって、経営的に(公的な認可を得たり利潤を得るといったことから)大規模化しないやっていけませんから、そうすると、このような急速な増加はあり得ないでしょう。

 このことが示唆するのは、急増した学校法人の私立通信制学校においても、教育施設や擁する教員や職員の数や質が軽視されたまま設置されたことであり、そこでは利潤動機が優先的に働いている可能性が否定できないということだろうと思います。 

  もちろん、そこでもすばらしい教育を行なっている、あるいはそうした努力に努めている学校や先生もいるかもしれません。しかし、政策としてこうした方向を進めた来たことは、教育破壊として非難されるべきことと思います。

 私は、新自由主義(特区政策)によって株式会社が参入していることは何となく知ってはいたものの、こんな形で、とんでもないことを引き起こしているのだとわかってびっくりしました。

 この制度の下で勉強する生徒、勉強させる親、働く先生達、それに直接関わる多くの人々にとっては、これが普通の日常となっているわけです。

 改めて、政策、政治というものの重要さ、そして教育に関わる研究者の社会的責任というものを感じます。

人間的公務員「天皇」制のために(10)--「奴隷的天皇制」を主張する日本会議の人々

 今回は、前回の続きを論ずる前に、挿入的に言及しておいた方がいいと考える、日本会議の人々の最近の反応を扱います。

 私は、以前、「奴隷的天皇制」について議論しました。

 それは、本人の意思に反する形で天皇就任を迫る憲法解釈を呼びます。 

 天皇が死んだら、天皇の長男は、本人がいやといっても、必ず天皇をやらせる、というわけです。 

 こういう主張が「奴隷的」というのは、ただ本人の意思に反するからだけではなく、家族ではない他人の意思(主権者たる国民の総意)に従わなければならないからです。*1

 天皇就任後についても、本人の意思と関わりなく、死ぬまで働け、というのも、奴隷的天皇制のようなものです。

 摂政という制度がありますが、それを用いても、家族ではない他人の意思(主権者たる国民の総意)に従わなければならない、という点で、奴隷制が維持されているといってよいでしょう。

 私は、「奴隷的天皇制」の強要こそ憲法違反と考えます。

 ところが、日本会議の主要メンバーは、実質的にこの「奴隷的天皇制」の強要を唱えています。

 最近の朝日新聞の記事から引用します。

 まずは、摂政制度の採用を主張し、特別措置法に反対する論者達です。

日本会議と神政連の政策委員を務める大原康男国学院大名誉教授

「例外というのは、いったん認めれば、なし崩しになるものだ」

 

日本会議代表委員の一人で外交評論家の加瀬英明

「畏(おそ)れ多くも、陛下はご存在自体が尊いというお役目を理解されていないのではないか」「天皇が『個人』の思いを国民に直接呼びかけ、法律が変わることは、あってはならない」

 

安倍首相に近い八木秀次・麗沢大教授

天皇の自由意思による退位は、いずれ必ず即位を拒む権利につながる。男系男子の皇位継承者が次々と即位を辞退したら、男系による万世一系の天皇制度は崩壊する」「退位を認めれば『パンドラの箱』があく」

 

 これらには、私が主張してきた天皇側の就任拒否権に対する極度の警戒が見られます。

 逆に言えば、この問題は、憲法解釈上も実際的な運用上も、彼らのアキレス腱なのです。

 次に、上記の人々の立場から少し後退したように見える論者がいます。 

 

百地章・日大教授

「制度設計が可能なら」という留保つきだが、(1)まずは皇室典範に根拠規定を置いたうえで特措法で対応する(2)例外的な退位を定める典範改正は時間をかけて議論する――という2段階論が現実的ではないかとの立場だ。「超高齢化時代の天皇について、陛下の問題提起を重く受け止めるべきだ」

  

安倍首相のブレーンの一人とされる伊藤哲夫日本政策研究センター代表

「ここは当然ご譲位はあってしかるべし、というのがとるべき道なのか」(機関紙「明日への選択」9月号)

 

 以上の2人は、「お気持ち」表明前、退位に反対し摂政を主張していたが、表明後にこのように変わった、とされています。

 しかし、それは天皇と真っ向から対峙するのはまずいという政治的判断であって、「奴隷的天皇制」を「維持」しようという姿勢は変わっていないように見えます。

 この朝日新聞の記事は、発言者名を記していませんが、日本会議の人物のものと思われる次の発言で終わっています。

 

「首相を説得してでも特措法を封じたい。安倍さんも『天皇制度の終わりの始まりをつくった首相』の汚名は嫌でしょう」

 

 奴隷制の強要に通ずる、恥じずべき憲法解釈とその運用が、21世紀の世界において、「美しい日本」を語る人々によって執拗に述べられる異常を、糾弾したいと思います。

 

*1:善し悪しは別として、歌舞伎等の伝統芸能において、本人の意思以上に家族の意志が職業決定に影響を及ぼすという事例があるかもしれません。それを、奴隷制と呼ぶのは適当でないでしょう。

人間的公務員「天皇」制のために(9)--横田耕一名誉教授の「実践的解答」

 今回は、また横道に逸れて、今日の憲法学者の「実践的な解答」について、批判を述べたいと思います。

 横田耕一(九州大学名誉教授)氏は、東京新聞(2016年08月18日)の「生前退位、こう考える」という欄で、天皇の今回の生前退位についての発言(「お言葉」)について、内容的に、①公的行為が歯止めなく広がる危険、②「象徴」が天皇の主体的な行為を意味しかねない危険、を指摘しています。

 そして、今回のテレビでの「お言葉」発表ということに至った経緯について、宮内庁と政府を批判しています。

 

引用(A)

 天皇陛下は生前退位という言葉を使わなかったものの、生前退位の希望を述べたことは自明です。憲法天皇が「国政に関する権能を有しない」と定めています。テレビで一斉に放映され、退位の制度化に向けて政治が動きだすのは憲法上、望ましくありません。こうした状況をつく
った宮内庁の責任は大きいと言えます。 

 本来は陛下の気持ちを付度して、宮内庁が内々で検討したり、内閣に伝えたりして話を進めるべきです。陛下は五年ほど前から、内部でお気持ちを漏らしていたと伝えられています。政府はもっと早い段階から、議論を始めるべきだったと結果的にも言えます。

 

 さらに、今回の天皇の「お言葉」から離れた「客観的な議論」を呼びかけています。

 

引用(B) 

 国民主権の原則から言えば 、「陛下がこう言ったから 」という理由で議論するのではなく、陛下の事情とは別に、天皇制のあり方を客観的に考え、その中で生前退位の是非を検討すればよいと思います。その場合、「天皇の公務とは何か」から考え直す必要があるのではないでしょうか。

  

 横田氏は、天皇制に関する憲法学の権威です。この記事はおそらくインタビュー的なものを基礎にした記事でしょうが、この問題についての、慎重によく練られた意見であると思います。

 それだけに、憲法学の象徴天皇制把握の実践的意義について、私は疑問を感じます。

 横田氏の主張は、第1に、天皇の主張内容が違憲的であること(上述の①②)、第2に、天皇の行動(テレビ発言)が違憲的であること(引用(A))、第3に、今後の議論は、天皇の公務についてを中心とし、その中に生前退位を位置づけるべきこと、とまとめることができます(引用(B))

 実践的課題という観点から、第2と第3の点を批判的に検討します。

 まず第2点ですが、横田氏は、天皇がテレビでの発言の一斉報道(「新たなる『玉音放送』」)という形について批判し、その第1の責任者として、宮内庁を批判しています。

 後では、宮内庁と政府を並べていますが、最初の批判対象は宮内庁です。そして、天皇自身は、批判の対象となっていません。

 どうしてでしょうか?

 それは、横田氏が、このテレビでの発言をセットした主体が、事実上宮内庁と推察しているからでしょう。

 通常の憲法解釈からは、政府の監督責任が問われる事柄であり、政府が批判されるべきです。確かにその意味で、横田氏は、後から政府についても言及しています。

 しかし、違憲的行動を支えている主体は、宮内庁であると捉えられているのです。

 さらに注意深く読むと、そのさらに先では、このような違憲的事態に至った原因という点では、(宮内庁というより)政府にあると主張している様です。

 天皇自身の責任については何故言及がないのでしょうか。

 それは、天皇が希望するのは勝手であるが、それを受け入れるかどうか、どのような形で受け入れるかは、宮内庁や政府の責任である、と横田氏が考えていることによるものでしょう。つまり「国政に関する限り」、天皇は何をいおうと無視されるべき、木石、ロボットのような存在として扱われているのです。

 横田氏の議論は、どうしてこのような違憲的事態が生じたのか、どうすべきであったのかについて、当然のことながら、自らの憲法論の観点に沿って論じたものとなっています。

 しかしそれは、彼の見る違憲的事態が生じた現実をリアルに把握しようとしたものとはいえないと思います。 

 私(達)は、まだ証拠がないので推察しかできませんが、事実の大筋は次のようなものであったでしょう。

 天皇が生前退位を望んだが、政府はそれを拒んできた。それ故、天皇が自分の意向実現のため、その意向のリークを許した。さらに、天皇自身が、意向実現のために国民に対するテレビ放送を希望した。

 政府は、天皇の意向を封殺したいと思っていたし、それが可能であると思っていた。しかし、一度意向がリークされるや、政治的に、天皇の意向表明を阻むことは不可能となった。

 宮内庁は、天皇の意向を「静かに」実現したかった。しかし、現在のような形で問題化される前に、天皇の意向を実現する対政府力はなかった。

 私が氏の論建てと現実の乖離を指摘しているのは、次の理由によります。

 つまり、彼の論建てからくる問題解決に対する実践的解答は、現実を憲法規範に近づけようとするというよりも、現実の経緯について、表層的な手続きを整えることによって、彼の憲法解釈規範を満たそうとするものになっているのではないか、ということです。

 意地悪な言い方をすると、しばしば官僚や政治家が悪用する形式的な手続きのみを重視する手法、それと同じにものになっていないでしょうか。

 何故なら、私から見ると横田氏は、こうした違憲的事態が生じないようにするためには、要するに、「宮内庁や政府がある段階までは『内々に』ことを進めろ」、あるいは、「現実はさておき、形としては、そういう形をとることが必要だ」と主張しているのですから。

 次回、第3点(引用(B))について議論します

人間的公務員「天皇」制のために(8)--「共和制派」におけるリアルな歴史の不在

 私は前回、「いくら厳格運用しても、象徴天皇制があり、天皇が生きた存在であり、従って政治的思想を持つ者として存在する以上、その行動や発言が、政治的な意味を持って現れること、現れようとすることは、抑えきれない」と述べました。

 この論点は、共和派の議論ではあまり出てこないことのように思います。私は、この問題を、うまくこなれた表現ではないのですが、「天皇の歴史的当事者性」の問題、というように捉えられると思います。

 そして、この「天皇の歴史的当事者性」の問題は、さらにより広い、「国際公約としての憲法」という視点から理解できるようになると考えます。

 通常の共和派的な憲法理解は、戦前の歴史的反省を踏まえて、「天皇の国政に関する権能をなくす規定を明記した」というもので、そこから、象徴天皇のシンボルマーク論が出てきます。

 しかし、考えてみると、誰がどのような「歴史的反省」を行なったのでしょうか?

 おそらく、敗戦当時の多くの国民がそうした気持ちを持ったということは、事実と言っていいでしょう。しかし、共和派的な理解が正しいのであれば、何故、天皇制の廃止(=共和制の実現)に至らず、象徴天皇制が採用されたのでしょうか。

 本来、憲法やフランス人権宣言のような歴史を画する文書は、歴史的・政治的運動の高揚の到着点としての記録です。

 そして、それは、実際の政治勢力の勝利によって支えられた社会的・政治的価値の制度的表現として、圧倒的な(社会的な広さと歴史時間的な持続性を持った)規範力を持つものです。

 当時、新しく生まれようとしていた日本国憲法についても、このような観点(当時の歴史的現実という観点)から理解するのが、自然であり、当然であると思います。私は、以前、宮沢俊義教授の「八月革命」論を、革命的言辞を弄しながら、実は革命主体を喪失させるものとして、批判を行ないました。

 私は、象徴天皇制に関する「絶対的天皇制への歴史的反省」論は、宮澤理論と同様の歴史的主体を喪失させる議論だと考えます。

 私自身の結論を先に言えば、新憲法全体とその中の象徴天皇制の条項は、次の3つの勢力の力学の結果を表現するものと考えます。

 ①ポツダム宣言に体現された国際的な民主主義勢力  

 ②天皇を頂点とする政府

 ③民主主義的な変化を歓迎した日本の人々

 つまり、新しい日本国憲法(の骨格)は、①の国際的な民主主義勢力の勝利を、日本の政治のあり方(憲法)のレベルでも、②の日本政府に改めて認めさせたものです。

 この意味で、日本国憲法(の骨格)は、ポツダム宣言受諾に続く、国際公約(日本政府による国際社会に対する国際公約)と呼ぶべき性質を持ちます。

 では、日本国憲法は通常の憲法、あるいはフランス人権宣言のような、国内的に強力な、民主主義的な支えを持っていないものと考えるべきなのでしょうか?

 私は、それに対する答は、Yesであり、またNoでもある、と考えています。

 まず、国内的な支えがあったという肯定的な側面を述べましょう。

 先に挙げた③の民主主義的な変革を歓迎した国民は、過半数にのぼると考えられます。 

 また、ポツダム宣言は、たんに日本政府に命令するのではなく、日本政府が「日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化すること」や「日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立」の実現を前提としていていました。

 従って、先に述べた③の民主主義的な変革を歓迎した過半数の国民は、新しい憲法の国内的な支えであり、さらに言えば、潜在的な意味においてではあるが、①の国際的な民主主義勢力の一部を構成していた、といってもいいものであると思います。

 以上のような私の議論は、従来の憲法解釈をより歴史的現実に立脚させることによって、わかりやすく実践的な新しい憲法解釈を得ようとする動機、現在の私達の政治的な課題がどのような歴史的な過程からどのようなものとして現れているかを明らかにしたいという動機、に基づくものです。

 次回以降に続けます。

 

人間的公務員「天皇」制のために(7)--難しい政治的位置にある「共和制派」

 共和制を理想とする「共和制派」勢力・支持者は、現在、最近の天皇の「お言葉」をめぐって、政治的に非常に難しい判断を求められていると思います。

 この共和制派は、「現時点での積極的共和主義派」と「現時点では象徴天皇制を容認する消極的共和主義派」、に分類できます。

 「現時点での積極的共和主義派」を積極派と呼ぶことにします。

 積極派は、現時点での象徴天皇制の廃止を主張します。現在の憲法解釈も極めて厳格に行ない、天皇の公的行為は、憲法に示された10の国事行為のみが許される、とします。

 これに対し、「現時点では象徴天皇制を容認する消極的共和主義派」を消極派と呼びましょう。

 消極派は、基本思想として、共和制を支持しますが、象徴天皇制の廃止が現在的な政治課題と上がっているとは考えません。

 憲法解釈については、天皇の公的行為の範囲は、憲法において列挙された10の国事行為以外についても認めるものとし、それが憲法の基本精神(国民主権、平和主義、基本的人権)に沿ったものであれば、違憲であるとは考えません。

 私自身は、消極派です。

 積極派は、私が以前、シンボルマーク論と呼んだ考え方といえます。

 ここでは、積極派の議論から始めて、その議論が論理的一貫性を持っているのに、今日の処方箋として実践性が欠けるものとなっていることを、歴史的な過程を含めて、少し詳しく見ていきたいと思います。

 澤藤統一氏のブローグ国民が「天皇を思いやる」という滑稽(2016.08.21)が、この積極派の現時点での問題把握を分かりやすく示してくれます。

 まず、澤藤氏は、毎日新聞の次の投書を引いています。

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天皇陛下のお気持ちを聞いて」

    (無職男性70歳 千葉県市原市

 天皇陛下が、現在のお気持ちを述べられました。
 「全身全霊」をもって象徴としての天皇の務めを果たしてきた、というお言葉に、頭が下がる思いがしました。私たち国民は、象徴としての天皇陛下がおられることが、当たり前で、何も疑問を感じないで今日まで来たように思います。
 国民は天皇、皇后両陛下に励まされ、生きる希望や喜びを感じてきました。これも「全身全霊」、陛下の無私のお心によってなされた行いであり、感謝しております。
 国民は、今まで、国民の象徴である陛下のことを、どれほど、思いやることができたのでありましょうか。陛下のお気持ちをお伺いするまでは全く無関心であったように思います。
 「人間天皇」として老病死は避けられない現実であります。陛下のお気持ちは、よく理解できました。このお気持ちに応え、政府は、早く対応を検討し、元気なうちに皇位を、継承できるようにしていただきたいと思います。 

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 その上で、氏は自らの主張を次のように対置します(議論のために、若干の省略を行ない、また、段落区切りを増やし、論点ごとに、番号を振りました)。

 

 ①・・・投書の文中に、「国民は天皇、皇后両陛下に励まされ、生きる希望や喜びを感じてきました。」とあります。天皇や皇后の励ましが生きる希望や喜びとおっしゃるあなたの言葉は私には到底信じがたいものです。もし、これがあなたの本心から出たものだとすれば、それはまさしく信仰の世界の言葉です。天皇・皇后は、いくつかの「神」や「教祖」に置き換えて読むことができます。・・・

 ②「全身全霊」をもって自分の努めを果たし、そのことで社会に寄与してきた人は天皇に限らず無数にいます。障がいを持ち、貧苦の中で、あるいは逆境に耐えてきた方に対してではなく、衣食住に苦労せず、国民の税金で生計を立ててきた天皇に、特に頭が下がる思いというのは、どうしても私には解せないことです。

 ③天皇家の私的な家計収入に当たる内廷費は今年度3億2,400万円です。天皇天皇としての勤めを果たすための宮廷費は、55億4,558万円。宮内庁の運営のために必要な費用は、まったく別で109億3,979万円。そのほかに、皇族(4宮家)の生計維持のための皇族費が、2億2,997万円となっています。

 内廷費や皇族費は、一切税金がかからない純粋な「手取り」です。もちろん住居も保障されていますから、天皇家も皇族も結構なご身分なのです。

 ②こんなに恵まれた天皇が、税金を負担している側の国民から、「どれほど思いやることができたのでありましょうか」と思いやりの声をかけられることは、滑稽ではありませんか。

 ②人間はみな平等。これは文明社会の公理です。誰の命も平等に大切。誰の人生も平等に価値あるものです。生まれながらの貴賤はありません。貴を認めるから賎なる観念も生じます。価値のない人生はない。まったくおなじように、家柄だの血筋だのの尊さもありえません。

 ④「象徴としての天皇陛下がおられることが、当たり前で、何も疑問を感じないで今日まで来たように思います。」
 それでよろしいのではありませんか。

 ⑤敗戦によっても天皇制が断絶せずに永らえたのは、日本を共産主義勢力からの防波堤とするためのGHQの思惑でした。「GHQに押しつけられた象徴天皇制」といってよいと思います。

 ④押しつけられたものにせよ、現行憲法にその存在の規定がある以上、存在自体は「当たり前」で、しかも普段は「その存在や天皇の言動に特に関心も疑問を感じない」というありかたこそが、憲法の想定するところだと思います。

 ⑥最後に申し上げますが、天皇制とは、取り扱いに注意を要する危険なものです。その危険のみなもとは、天皇が政治的に使える道具であることにあります。国民が、天皇に肯定的な関心をもち、天皇を敬愛するなどの感情移入がされればされるほど、天皇はマインドコントロールの道具としての危険を増すことになります。あなたにとっては不本意でしょうが、あなたの投書も、そのような象徴天皇の危険性を増大することに寄与しているのだと、私は思います。
(2016年8月21日)

 

 氏の主張は、

①投書者による天皇崇拝は宗教的信仰と変わらないものであること、

②投書者による天皇に対する評価の仕方は、人間平等の価値に反していること、

天皇制の維持に税金が大きく用いられていること、

④象徴天皇は、憲法の規定によって、シンボルマークのようなもの(木石、もしくは人形やロボットのようなもの)でなければならないこと、

象徴天皇制は、GHQが、反共産主義の砦として設定したこと、

天皇制は、政治的な道具とされる危険な要素を持つこと、

と、まとめられます。

 これらは、理路整然としていて、ほとんど反論の余地がありません。

 ④を除く、①②③⑤⑥の論点については、私(消極派)も賛成します。

 しかし、この立場に立った時、しかし、天皇の提起(「お言葉」)に対する実践的な回答は、何なのでしょうか。

 ④という回答も、一つの回答です。しかし、それは、無回答(つまり、「黙っていなさい」という回答)と同じことです。

 あるいは、共和制への移行を提起するということも、この立場の一つの論理的帰結ともいえます。

 しかし、一方で澤藤氏のようにこの立場を堅持する人もいるでしょうが、おそらく共和制に共感する人々の中でも、多くの人が、そうした回答は、ことさら一般の人々(自覚的共和派以外の人々)の反感をあおるようなものであり、現在、政治的に不可能だということも認めるのではないでしょうか。

 私は今の時点から見ると、共和制積極派の持つ困難は、歴史の出発点に埋め込まれており、時間の経過とともに、ますます、その立場をそのままで実現することは、難しくなってきていると思います。

 もともと憲法の基本原理は、共和制的なものでできており、象徴天皇制は、GHQの占領支配の都合から、下からの革命的な変化を防ぎ、既存の政府・統治機構を利用するという意味で採用されているものと理解できます。

 つまり、GHQとしては、憲法象徴天皇制条項の厳格運用がなされたとしても、それが、共産主義勢力が多数になって共和派を占めるというようなことと関係なければ、全く問題がなかったでしょう。

 GHQにとっては、GHQの統治に都合がいいかどうか、ポツダム宣言の「民主的傾向の復活と平和的な政府」という国際公約の建前に沿った外観を持っているかどうか、が問題で、政府が共和派かどうかということは、ある意味ではどうでもいいことだったといえます。

 またGHQは、ある程度時間が経って後(憲法ができたり、独立したりした後の過程)の憲法運用や長期的見通しについては、詳しくは考えていなかったでしょう。

 しかし、日本人自身の共和派にとっては、このGHQ象徴天皇制案を提示し、それに基づいて、現憲法が制定された時点が、象徴天皇制を厳格に運用する最大の可能性が存在した時点であったと思います。

 つまり、天皇の公的な行為として、憲法に規定された10の国事行為のみとし、他は一切認めない、とするためのチャンスは、新憲法が実施される、その瞬間こそにありました。

 その最初の国会開会式では、天皇の「お言葉」が述べられる等という憲法に規定されていないことはやるべきではなかったのです。

 しかし、実際には、憲法が施行されてからも、昭和天皇、政府、国会の3者が、憲法規定を守らず、あるいはそれに沿った厳格な運用を行なわないままでした。

 そして、共産党だけが、国会開会式における天皇の「お言葉」に対して欠席してきたものの*1、何十年もの間、天皇の「公務」は、政府と天皇自身の希望によって拡大してきました。

 ただ私は、この経験を経て、共和派の主張が実現しなかったことが、現在の問題を引き起こしている、というようには考えません。逆の言い方をすると、共和派の主張どおりに、憲法規定の厳格運用(シンボル・マーク理論に沿った運用)がなされていたとしても、長期的に見ると、現行憲法自体に解決が難しい矛盾が内在していたと考えます。

 仮に、現行憲法の下で、共和派にとって理想的な統治が進められ、憲法規定の厳格運用がなされたとします。

 その場合でも、政府の側からイニシアチブを持って(つまり国民主権を明確にして)、天皇の生前退位や女性による世襲も含めて規定した法律を作ることが必要となったし、象徴天皇としての役割に関して、シンボルマーク論では対応しきれない場面が出てきて、天皇憲法に沿ってどのように行動すべきかについて、議論が必要となっただろう、というのが私の考えです。

 何故そうなるかというと、3つの理由があります。

 第1は、澤藤氏が指摘した①のような「天皇教」崇拝の人々(投書者)が、現在もかなり存在することです。これらの人々を「理論的に」説得することは、不可能でしょう。

 第2には、新憲法の出発点では、可能と見えたシンボルマーク論は、生きた人間に対しては、憲法の精神と反するものとなってしまうことです。

 法律論を超えて、「これは無理」、「おかしい」と感ずる人が多くなってしまうことは押さえられないと思います。

 第3に、いくら厳格運用しても、象徴天皇制があり、天皇が生きた存在であり、従って政治的思想を持つ者として存在する以上、その行動や発言が、政治的な意味を持って現れること、現れようとすることは、抑えきれないからです。

 私の提案は、こうした状況に対処しようとする一案です。

 また長くなりました。次回以降に続けます。

 

 

*1:共産党は、戦争法廃止のための野党共闘を方針とするようになって、上記の国会開会式の欠席方針を改めました。理由は、共産党が現行の象徴天皇制に反対しているように誤解されるから、というものです。

 確かに、欠席理由がむしろ、象徴天皇制に忠実であろうとした結果であるということは、ある程度勉強していないとわからないでしょう。メディアは、政治観測的な記事を書くよりも、そういうことをきちんと伝えてほしいものです。

人間的公務員「天皇」制のために(6)--「天皇制派」の現在

 今回は、「象徴」について議論する前に、天皇の世代交代やその後の時間の経過、政治状況の変化によって新しい状況・構図が出現しているということについて議論しておきます。

 このことは、さらに未来のことを考えるとはっきりします。

 例えば、イヤな仮定ですが、自民党憲法案が国民投票で成立したとすると、「自動的」に、天皇は元首になるのでしょうか?

 私の考え(憲法解釈)では、普通の人間に戻る権利、すなわち天皇就任に関する拒否権を持ちます。実際に、彼にとって拒否権を行使することは、非常に難しい判断でしょうが。

 私は、現天皇が現憲法の価値を積極的に受け入れ、促進する立場に立ったことによって、象徴天皇制に関する新しい状況・構図が生じていると言いましたが、このことをもう少し詳しく述べます。

 まず、旧来の天皇制支持勢力について見ましょう。

 旧来の天皇制支持勢力は、2つに分かれてきていると理解すべきと思います。第1は、この現天皇を中心とする現平和憲法積極支持派です。第2は、「日本会議」のように戦前の天皇制のイメージや権威をできる限り復活、利用しようとする戦前天皇制復活派です。

 この戦前天皇制復活派は、もちろん、戦前と同じ絶対的天皇制を復活できるとは思っていませんし、口先では、民主主義を唱えます。対内的にも、対外的にも、それが必要な時代であることはよく分かっています。しかし、天皇制のイメージや権威をうまく使って、自分達に都合の良い国民支配を進めようとしているのです。

 旧来の天皇制支持勢力が、この2つに分かれてきているのは客観的根拠があると思います。

 第1に、後者の戦前天皇制復活派は、今世界中で極右が復活、成長している現象と同じで、日本ではそれが國体イデオロギー歴史修正主義を掲げている勢力であり、安倍ファシズム政権を支えています。

 第2に、前者の平和憲法積極支持派は、自らの存続には、象徴天皇制という形での現憲法が最良であると判断している勢力です。現天皇や皇后だけではなく、おそらく天皇ファミリーのメンバーや関係責任者の多くが含まれるのではないでしょうか。

 戦前の絶対主義的天皇制が、國体イデオロギーによって「完成」し、「破滅」へ至ったのは、ほんの10年程度の間のことです。

 冷静に考えれば、同じく、安倍ファシズム政権に未来はなく、その路線が戦前天皇制復活派の方向で、強硬化すればするほど、日本全体を、したがって天皇ファミリーをも破滅に導くものであることは明らかです。

 従って、自分達も疎開、敗戦という経験を持ち、また、極東裁判によるA級戦争犯罪人の処刑を身近に知っている天皇や皇后が、戦前天皇制復活派に同調しないのは、全く自然なことです。

 そして天皇ファミリーの永い存続を、現在の象徴天皇制こそが保証している、ということを、理性的にも感性的にも受け入れているのではないでしょうか。

 仮に私が、天皇もしくは天皇ファミリーの責任あるメンバーであったとしても、それ(現憲法積極的支持)以外の判断はあり得ませんね。